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テニス

リストバンド:フレッド・ペリーのワイルドカード

フレッドのリストバンドの素朴なアイデアからどのようにしてイギリスの不朽のファッションブランドが誕生したのか、そのストーリーを紹介します。

フレッドのリストバンドの素朴なアイデアからどのようにしてイギリスの不朽のファッションブランドが誕生したのか、そのストーリーを紹介します。

「私は現実的な人間なので、自分の名が、ウィンブルドンで3回優勝したことよりも、フレッドペリーのシャツやスポーツウェアで世界中に知られていることを、何のためらいもなく認めてきました。」――フレッド・ペリー(1984年)
イギリス人テニスプレーヤーとしてキャリアグランドスラムを唯一成し遂げたフレッド・ペリーですが、おそらくファッションブランドの名称としての方がよく知られているのではないでしょうか。そして、初めて売り出したテニス用品が、おなじみのピケシャツではなく、素朴なリストバンドだったことは、あまり知られていません。

1952年初頭のスポーツウェアカタログでのフレッド

ウィンブルドン3連覇から10年以上がたった1940年代後期、フレッドは、アスリート仲間で後にビジネスパートナーとなるティビー・ウェグナーに声を掛けられます。 ウェグナーは、サウスロンドンのレストランでの商談で、新しいテニス用品のアイデアを売り込んでいました。まだ試作品だったその商品は、テニスをしている時に額の汗を拭くためのものでした。当初のアイデアはタオル地の大きなストラップで、その場にいたアスリートたちから絶賛されました。

ところが、たまたま同じレストランで食事をしていたフレッドには、まったく良いものには思えませんでした。おしゃれなウェアに身を包むテニスプレーヤーがそんなもの(フレッドの言葉を借りるなら「バスタオルみたいな重たそうなもの」)を欲しがるはずがないと思ったからです。フレッドは、ウェグナーのアイデアを踏まえて、自身のテニス経験を振り返り、ウィンブルドンでは手首にガーゼを巻くことで、汗が伝ってグリップが滑らないようにしていたのを思い出しました。フレッドがウィンブルドンで3連覇を達成できたのは手作りのリストバンドのおかげとは言えませんが、それが役に立っていたことは確かです。

テキスタイル業界での経験があるウェグナーと、テニスの実績において並ぶ者がいないフレッドは、協力して一からデザインをし直すことにしました。数カ月後、二人は新しい試作品を取りにレスターの工場へと向かいました。この時に完成したのが、軽量で柔軟な、誰もが知る現在のリストバンドです。新たなビジネスパートナーとなった二人は、無理はせず、まずはノベルティとしてリストバンドを配り始めました。するとすぐに世界中のトッププレーヤーたちに着用されるようになりました。

そうして、現在スポーツウェアブランドとして知られているフレッドペリーが誕生したのです。リストバンドの成功の後、フレッドはスポーツウェア事業を展開しました。彼のモットーは、常に最先端を行く、機能的でスタイリッシュな商品を提供することでした。 実用的なテニス用品からスタートしたブランドは、瞬く間に知名度を高め、イギリスの不朽のブランドとなりました。そして今でもその中核にあるのは、1952年にフレッドが考案したテニスシャツです。イギリスのサブカルチャーファッションの代名詞ともなったそのシャツは、何世代ものテニスプレーヤーたちをインスパイアするものとなり、反体制派、ミュージシャン、映画製作者を経て、回り回って再びスポーツ選手たちに支持されるアイテムとなりました。もちろん、リストバンドもその例にもれません。ブランドのレガシーの原点であるそのシンプルなテニス用品もサブカルチャーの定番アイテムとなり、スター選手をはじめとして、ギタリスト、ドラマー、ベーシストたちまでもが手首を飾るようになりました。その核心を成しているのは、やはり機能性です。

フレッドペリーシャツとタオル地のリストバンドを身に着けてステージに立つポール・ウェラー

リストバンドを手作りしていた一人で、たいていはバンダナを使い、いつもダクトテープで留めていました。フェンダー・テレキャスターを熱狂的にかき鳴らす手首を守るために着用していたリストバンドは、すぐに彼の定番ファッションの一つとなりました。 ジェイムズ・ヘットフィールドやポール・ウェラーのようなレジェンドアーティストたちもそれぞれ独自のリストバンドを使い続け、やがてリストバンドは、世代を超えて多くのスポーツ選手、ミュージシャン、サブカルチャーのコミュニティに愛用されるアイテムとなっていきました。
リストバンドは、フレッドペリーの歴史の原点です。それは、成功と情熱、犠牲と勝利のシンボルであり、完全に身をささげている証しでもあります。