フレッドは綿紡績工にして社会主義者の下院議員を父に育ち、あらゆる困難をものともせず、テニスがエリートのスポーツであった時代に、必殺のフォアハンドでウィンブルドンを3度制覇しました。
彼が最初にスポーツを観たりプレイすることに興味を持ったきっかけは、ブレンサム・クラブでしたが、それは自宅のすぐ近くにあり無料だったからです。
フレッドは卓球が大好きな少年でした。毎晩、家族全員からブーイングを受けながらも、食卓を壁際に移動して卓球台にして、ボールをネットの向こうに何度も打ち続けました。
こうして自己流で学んだフレッドは、19歳で卓球の世界チャンピオンになりました。
そしてローンテニスに転向。
ブレンサムでは、父親にもらったみすぼらしい古いラケットで独学でショットを磨き、自己流のコンチネンタル・グリップを練習しました。彼はハードコートでも芝のコートでも練習し、どちらも利用できない場合にはローンボウリング用の芝生にもぐり込んで、追い出されるまで練習を続けました。

自宅で卓球の練習をしていたのと同じように、フレッドは家や温室でボレーの練習をしました。
このように一人で繰り返し練習する中で、独自のリズムや動きが編み出されていったのです - 温室は残念な状態になりましたが。
こうした固い決意の末、フレッドは様々なジュニア・チャンピオンシップに出場しますが、あるとき唯一持っていた1本のラケットが折れてしまいました。
すると、フレッドの可能性に目を付けたデビス・カップの選手が、親切にも新品のラケットをプレゼントしてくれました。トーナメントへの挑戦を勧められたフレッドは、テニスクラブの窓を割ったり、ネット前でバランスを崩したりしながら、何時間も、何日も、何週間も練習を続けました。
フレッドは、英国1位のバニー・オースティンとの重要な試合で敗れたことで自信を失いました。しかし後になって、この試合に負けたことは勝つことと同じくらい重要だと気付きました。テニスはそこで終わりではなく、これまで以上に決意を固めて勝利を目指すのだと。
その後は誰もが知るとおりです。フレッドはデビスカップのキャプテンとして優れた成績を収め、メジャー大会で10勝を挙げ、そしてキャリアグランドスラムを初めて達成した選手となりました(今でもキャリアグランドスラムを達成した英国人選手は他にいません)。
彼は今もなお、英国が生んだ最も偉大なスポーツ選手の1人です。
とはいえ、彼の成功は常に予想外のものでした。貧しい地域の出身だったフレッドは、英国のテニス界に前例のない貢献をしたにもかかわらず、英国でテニスに関連する大半のプレイヤーと毛色が違うという理由だけで、晩年までテニス界の権威者に受け入れられませんでした。
1984年、ウィンブルドンにフレッドの銅像が建てられ、偉大なるチャンピオンが永遠に讃えられることになりました。

第一回目のフレッドペリー・チャンピオンシップを記念して、ハードコートをアイコニックなフレッドペリーシャツと同じブラック&シャンパンに塗り替えました。フレッドペリーの独立精神を象徴した、テニスの伝統である白という色を覆すカラーです。大会後には、非会員も無料で使用できるコート3面もブラック&シャンパンに塗り替えました。
優勝者にはそれぞれ、フレッド自身が1961年にBBCのラジオインタビューで若手選手たちに与えたアドバイス、「一心不乱であれ」というフレーズが添えられたメダルが授与されました。
フレッドの人生はテニスだけに留まりませんでした。東欧出身のユダヤ人実業家と、テニス選手用のスウェットバンドを制作する事業を開始したのです。機能的でありながらスタイリッシュな製品が、アパレルブランドとしてのフレッドペリーの始まりでした。そこには必ず、ウィンブルドンにおける卓越した活躍のシンボルであり、身に着ける者にとって個性と一体感の象徴であるローレルリースが載せられています。
2019年のフレッドペリー・チャンピオンシップの優勝者は、コート内外で着用できるウェアの契約が贈られました。ウェアのカラーはこのトーナメント用に特別にデザインされたブラック。ここでもテニスに対するフレッドペリーの非伝統的でユニークなアプローチが反映されています。
フレッドペリーはユーステニスのサポートに力を入れています。このトーナメントは、LTA(ローンテニス協会)や地方自治体と連携した長期的で全国的な取り組みの出発点であり、フレッドペリーは全国各地でコートの改修や既存施設の整備にも力を注いでいます。


将来的にワイルドカードの選手がさらに増えること - 様々な経歴や人生を歩んできた第二、第三の「フレッド」が登場することが、フレッドペリーの願いです。
フレッドペリー・チャンピオンシップ・トーナメントについての詳細は、lta.org.ukをご覧ください。