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サブカルチャー

パリはレイヴ中

2018 年頃、パリ郊外の汗まみれの倉庫で踊るレイヴァーの服には、 「 Mourir au Club 」(クラブに死す)という言葉が飾られていました。 それはコロナ禍の前、そして間違いなくクラブが仮死状態に追い込まれ る前のことです。あのころと同じクィアなインダストリアルテクノやガ バテクノのムーブメントが今、灰の中から飛び立つ不死鳥のように蘇り ました。シーンの関係者たちと話して分かった、この間に業界に起こっ た変化をスクープ。

レイヴのオーガナイザーと言えば Flash Cocotte 、 Possession が老舗ですが、新しいオーガ ナイザーたちも同様に会場を占拠しています。 Oeshixa はその一つ。彼らの信条はシンプル に、アイデンティティの自由とパーティを楽しむこと。

こうしたレイヴには政治的な意味合いがあり、例えば移民を支援していたライブハウス Le Consulat Voltaire では、 2018 年、移民のテントに屋根を提供しました。オーガナイザーた ちは現在も急進的なスピーカーや DJ を招待しており、 DJ や ブースの向こう側の人々にも 踊る人々の多様性が反映されています。

現在、最高のチューンをまわす DJ と言えば、ルイサーと DJ Nomad 。彼らは鉄板バンガー に新鮮なサウンドをミックスしています。本稿ではテクノの軌跡、まさに暴動を思わせる Fusion Mes Couilles や 2019 年に閉店した Concrete 、さらに二人の DJ の個人史を、移住体 験を含めてたどります。異分子たちのパーティなは、我々に DJ を任せるというのもアリで しょう。

始まりは ......

始まりは、抗議活動でした。アウトサイダーたちにテクノのインダストリアルなサウンドが 浸透しました。テクノのビートは、このジャンルが生まれたデトロイトで起きた自動車メー カーのストライキや 1967 年の公民権運動と共鳴しました(アッシュ・ローリン)。人の移 動もテクノで重要な役割を果たしたと考えられます。デトロイトのアフリカ系アメリカ人コ ミュニティで生まれたテクノは世界中に広がり、アメリカやベルリンでインダストリアルな エッジを高めていきました。ルイサーと DJ Nomad も、人の移動はテクノの歴史と彼ら自 身のストーリー にとって重要であると考えています。

反体制的精神が宿るパリは、ルイサーや DJ Nomad 、それにテクノを、メインストリームも オルタナティブも含めて育むのに最適な地でした。 2018 年から 2019 年にかけて、レピュ ブリック広場にはさまざまな国籍の多種多様な抗議活動家が集まり、毎日のように正義のた めの闘いを繰り広げました。同時に、レイヴは国籍や政治、言語の壁が破壊される場でし た。 DJ が誰であろうが、そこにいる皆が同じものを求めていました。「自由」です。テク ノのインダストリアルなビートは団結の鼓動でした。ジャン= イヴ・ルルーは、 1990 年代 にもオーディエンスには多様性があったと振り返ります。「パンク、ゲイ、ディスコファン が一カ所に集まっていました」。 DJ たちもアルジェリア人のクィア DJ 、 Frederic Djaale を はじめとして多様性に富んだ面々でした。

1990 年代から現在に至るまで、レイヴは人種や文化のるつぼであり続けています。テクノ には、サウンドや物理的存在感、踊る人々の高揚感を通して「場を掌握する海賊的な力」 (ジャン=イヴ・ルルー)があります。 DJ ブースの向こう側ではマイノリティの活躍は目 立たなかったも のの、レイヴは初期のインターネットであるミニテルや、手渡しチラシを介 して開催されていました。こうした活動からインクルーシブな場が生まれ、人気 DJ がオン ラインで配信する土壌が整えられたのです。

パリを拠点に 10 年間、 DJ として活動しているアメリカ人のルイサーはこう語ります。「た ぶん、私の『血統』は、最も純粋な形のテクノというより、もっと『俗っぽい』ものにルー ツがあるのでしょう ― ダフト・パンクやビジー・ピーやジャスティス、 DJ メディとともに Ed Banger Records に進化した Roule Records のような。彼らは 2000 年代初頭にブレイク した『ブログハウス』のアイコン的存在でした。ここから Sound Pellegrino や Institubes や Bromance のような小さなレーベルがたくさん生まれたのです。私はこんなバックグラウン ドを持ってフランスにやってきました」。 その後、 2015 年にルイサーはメイルストロムと のコラボレーションで彼女自身がオーナーとなる RAAR レーベルを立ち上げます。ルイサ ーはこう言います。「もちろん、(さっき挙げたメイルストロム以外にも)フランスは無数 の才能とインスピレーショ ンを輩出してきました。ミス・キトゥン、ザ・ハッカー、デビッ ド・カレッタ、ローラン・ガルニエ、テレンス・フィクスマー、 DJ クロエをはじめとし て、世界の音楽シーンの大物プレイヤーになっているフランス出身のアーティストは大勢い ます」。 ルイサーは、パリのテクノ・レイヴ シーン全体を俯瞰して、アメリカとフランス の大きな違いはアンダーグラウンドへの財政支援の点にあると指摘します。

その結果は ......

アンヌ=クレールが多様性の欠如に立ち向かうため Possession techno (パリ屈指のクィ ア・レイヴオーガナ イザー)を設立したのも、こうした支援があってのことかもしれませ ん。彼女はこう書いています。「 2015 年のパリのレイヴ シーンには、本当の意味で保守的 な価値観を超えるパーティはありませんでした」。 2017 年、 Fusion Mes Couilles や Flash Cocotte 、 Concrete でのアンヌ=クレールによるパーティのような場は、ルネッサンスを感 じさせました。我を忘れて楽しめる場が現われたのです。そこではドレスコートや性別の規 範、あらゆる規律があってないようなものとなり、もはやカオスな状態でした。そ こに行く のは楽しみ、決して批判せず、先鋭的な意見を交換するためでした。ハニー・ディジョンは 「ベルグハインはボディシェイムのないユートピアです」と言いましたが、 Concrete も同 様でした。『 Time Out 』誌には、「 Concrete は 2019 年に閉店したかもしれませんが、 ケ・ドゥ・ラ・ラペにあったこの巨大クラブは、スタッフ、神秘的な雰囲気、プログラムの 幅広さという点で、ベルリンのベルグハインに匹敵するとも言える必訪スポットへとたちま ちのうちに成長しました」との記事が掲載されました。 そんな時代もあったので す。

では、レイヴカルチャーの脈動はどこから来ているのでしょうか?ルイサーはこう指摘しま す。「資金援助を語らずにフランスの音楽カルチャーは語れません。(エレクトロニック ミュージックを含む)アートもアーティストもたくさんの資金を支援されていて、このこと でプロモーター、フェス、ライブハウス、ミュージシャンたちによる大胆な選択や新たな挑 戦が可能なエコシステムができています。より幅広い商業的センスに迎合する(しすぎる) ことなく、アートで生活していくことができるようになっているのです」。 その流れで、 オルタナティ ブに多くのオーディエンスを集めることも可能になります。「彼らのイベント は人気が出過ぎて、バリケードはまだしも、最悪の場合は街頭での暴動を生み出しました」 と、コロナ禍前、世界中の DJ をパリに招いていた Flash Cocotte のボイラールームは書い ています。混沌としていながら、美しいもの。それがレイヴです。

現在は......

大型クラブが苦戦したり閉店したりする中、 DJ Nomad はポストコロナ時代を迎え、新しい スペースで行われる違法またはアンダーグラウンドのパーティでオーディエンスを魅了して います。移住やパ リのテクノ・レイヴ・シーンについて、これらの事情に関わりの深い DJ Nomad はこう断言します。「僕らが現在『テクノ』と認識し、愛している音楽は息が長 く、 1980 年代のアフリカ系アメリカ人コミュニティの政治的・社会的背景を受け継いだも のです。それが成長して世界中に広がったことで、今のテクノになりました。今のテクノに はエリート主義的なところがあるものの、社会から取り残されたコミュニティが表現の自由 として利用していた音楽の中核的基礎は、今も健在だと信じています。そして、そのことに 感謝し、大切にすべきだと考えてい ます」。 これ以上に適切な表現があるでしょうか。こ れこそ DJ Nomad やルイサー、 DJ Garbage のようなセレクターたちが守ろうとしているも のであり、サウンドやアイデンティティはその周囲にあるものなのです。ポストコロナ時 代、ライブは経済的に厳しい状況にありますが、 DJ と踊りに来る人々の間のフィードバッ クはうまく回っています。また、耳に馴染んだみんなが大好きな音楽への新たな渇望が生ま れたことで、新人 DJ にもチャンスがもたらされています。

パリのテクノシーンに平等をもたらすのは、テクノロジーを中核とするインターセクショナ リティです。「今の世の中でロックスターな気分になることについて話しましょう。これま では、個人やグループがそんな気分になるには、楽器を習い、ライブをやるのが一番手っ取 り早かったと思います。今は CDJ を複数台使 えば一人で同じことができて、クラブ全体を 盛り上げることができるでしょう。(略)僕自身も自分のことを現代のロックスターだと言 い切れます。この思いはパンクムーブメントの DIY 精神でより強くなりました。最初に主 義主張があり、次にムーブメントが来て、そしてスタイルが定義されるのです」。

1990 年代から今に至るまで、パリは夕暮れから夜明けまでレイヴし続ける街。人の移動や テクノ、そしてテクノでチャンスをつかむ人々があってこそ、パリの倉庫やクラブには他の どこにもない自由があるのです。ダンスフロアや DJ ブースの向こう側 に、支援事務所で、 あるいは反体制的なオーガナイザーの姿で、愛は手に届く場所にあります。人々の自由に は、人々からの支援が必要です。人々の団結が続く限り、ムーブメントがどのように変わろ うと、ダンスの高揚感は変わらないでしょう。レイヴは不滅です。