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サブカルチャー

A Brief History of Nightlife

ナイトライフの歴史

Words by James Anderson
Photos courtesy of Museum of Youth Culture
2023年1月

70年代から現代に至るまで、ナイトライフの進化の歴史をたどります。

Header: Photo by Peter J Walsh - Ravers dance on the main stage, The Hacienda, Machester, 1989. / Above: Photo by Adam Friedman - Disco Fever, New York.

70年代後期:ニューヨークディスコ

70年代後期のデカダンスの象徴として、スタジオ54以上にふさわしい場所はないでしょう。この伝説的なニューヨークのディスコクラブ(1977年にスティーブ・ルベルとイアン・シュレーガーが設立)は、かつてテレビスタジオだった場所に開業し、1980年の閉業までマンハッタンの人気スポットとなっていました。マイケル・ジャクソン、グレイス・ジョーンズ、カルバン・クライン、ライザ・ミネリ、アンディ・ウォーホル、サルバドール・ダリといった、音楽、ファッション、映画、アートの世界の大スターたちが、ニューヨークで最もホットなダンサーやドラァグクイーン、モデルたちとパーティに興じました。スタジオ54への入場は至難の業。それはスティーブ・ルベルが、楽しい時間を過ごせる雰囲気で、社会のいろいろな人々が集まる場所にしたかったためでした。セレブリティや、そうでなくとも注目される姿をしている人は、すぐに中に通されましたが(ビアンカ・ジャガーは白馬に乗ってやって来たことがあるとか)、それ以外の何百人は外で、ドアマンに中に入れてくれるよう必死で訴えていました。一方、店内では誰もが打ち解けて交流しており、ウォーホルはスタジオ54を、「エントランスでは独裁的、ダンスフロアでは民主的」と形容しています。流れていた音楽といえば、DJのニッキー・シアーノによる、シック、シスター・スレッジ、ドナ・サマーといったアーティストの魅力的なミックスでした。

主な曲
シック「Le Freak」
ドナ・サマー「I Feel Love」

Photo by Marcus Graham - New Romantic, George, posing with two women, Bastille club, Bristol 1985.

70年代後期~80年代初期:ブリッツキッズ

70年代のパンクシーンの名残から新たなムーブメントが現れ、ロンドン中心部のみすぼらしい小さなバーやディスコに広まっていきました。その主催者は、かつてパンクの中心人物だったスティーヴ・ストレンジと、彼の友人でDJのラスティ・イーガンです。二人は当初、ソーホーにあるBilly’sという薄汚れたクラブでデヴィッド・ボウイをテーマにしたイベントを毎週開催し、元パンクス、ロカビリー、スクワッター、ファッションの学生など、はみ出し者たちを集めていました。彼らがその次に企画したのがブリッツです。ドレスコードのハードルがさらに上がり、DJによる先進的なセットリストでは、クラフトワーク、テレックス、キャバレー・ヴォルテールによる、シンセサイザーを多用したトラックがプレイされていました。ブリッツの常連だったのが、80年代のニューロマンティックムーブメントの火付け役となったボーイ・ジョージやジョン・ガリアーノなどです。彼らの姿は、当時創刊されたライフスタイル雑誌『i-D』や『The Face』に大きく取り上げられました。ブリッツが求めたもの、それは度胸と献身。装いで注目を浴びる努力をした者だけが、そのエントランスをくぐることができたのです。

主な曲
クラフトワーク「The Model」
The Normal「Warm Leatherette」

Photo by Debbie Graves - The UK goth scene, late-80s.

80年代初期~中期:ゴス

70年代後期のポストパンクから進化し、メインストリームを外れて誇らし気に存在していたのが、ゴスです。その主役たちは、ロンドンのBatcave、リーズのLe Phonographiqueといった、たばこの煙が充満するナイトクラブに通い、シスターズ・オブ・マーシー、バウハウス、ザ・キュアー、キリング・ジョーク、エイリアン・セックス・フィーンドといったバンドのライブに集まっていました。退屈なハイストリートファッションに反発したゴスのスタイルは、つま先の尖ったブーツ、スタッズ付きのベルト、十字架のネックレス、いくつものバングル、太いアイライナー、激しく逆立てた髪が特徴です。ゴス好きは気難しく内向的といったイメージでくくられがちですが、実際には社交的で、日が沈んでからドレスアップしたり、お酒(特にカシスジュースを混ぜたシードル)を飲んだり、踊ったりすることを心から楽しむために、すれ違う人たちからの嘲笑や彼らとのもめ事に立ち向かう勇気を持っていました。

主な曲
バウハウス「Dark Entries」
シスターズ・オブ・マーシー「Anaconda」

Photo by Marcus Graham - Ravers dancing outside 'the Trip' at the Astoria London 1988.

80年代後期:アシッドハウス

アシッドハウスは1987年に、DJのダニー・ランプリングと彼のパートナーであるジェニーがサウスロンドンで開いていた、小規模ながら影響力の大きいShoomというパーティから生まれました。Shoomでは、イビサの気楽な雰囲気に、当時シカゴやデトロイトで台頭しつつあったハウスミュージックを取り入れていました。そして言うまでもなく、新たに生まれた「エクスタシー」と呼ばれるドラッグもです。やがてロンドンでもSpectrumやThe Tripといったアシッドハウスのクラブナイトが開催されるようになり、そのバイブスはイギリス全土に広がっていきました。毎週末、何千という若者が屋外での非合法なアシッドハウスレイブやウェアハウスパーティに集まり、タブロイド紙の扇情的な記事や警察による取り締まりにつながりました。彼らのファッションは、ルーズフィットのオーバーオール、オーバーサイズのスマイリーロゴ入りTシャツ、バケットハット、ショートパンツに、バムバッグと、スニーカーかキッカーズのシューズといった多彩なスタイル。これと比べれば、過去数十年のナイトライフはおとなしく思えるほどでした。

主な曲
フューチャー「Acid Tracks」
Humanoid「Stakker Humanoid」

Photo by Tristan O’Neill - Jungle Scene, UK, 1990s-2000s.

90年代初期~中期:ジャングル

90年代初期のUKハードコア/レイブシーンから誕生したジャングルは、ブレイクビーツ、ラガ、ダブ、テクノ、MCボーカルを融合させたジャンルでした。そうしてたどり着いたのが、ダークでざらついた、高速かつラウドな音楽です。ジャングルとして定義された当初の曲の一つとして、ブレイクビートハードコアのプロデューサーであるレニー・デ・アイスによる、ヘビーなラガのベースラインが特徴的な「We Are I.E.」が挙げられますが、実際には80年代後期に録音されたものでした。ジャングル中心のクラブナイトは、徐々にイギリス全土で人気が高まっていきます。よく知られていたクラブは、ロンドンのRageやAWOL、ウルヴァーハンプトンのQuestなどです。そこでは、ゴールディー、ファビオ、グルーヴライダーといったジャングルシーンのスーパースターDJやプロデューサーたちが、その妥協のない新しい音楽をプレイしていました。ジャングル好きの人たちのファッションは、女性はさまざまなライクラ素材のボディコンドレス、ホットパンツ、レザーベスト、ジーンズ、男性はカモフラ柄のアイテムやMA-2のフライトジャケットにナイキのエアマックスといった、自身のスタイルと熱い思いを感じさせるものでした。

主な曲
Urban Shakedown feat. D.B.O General「Some Justice '95 (Arsonist Dub Mix)」
Studio 2「Who Jah Bless?」

Photo by Darren Regnier - UK Garage night, Twice as Nice, 90s.

90年代中期~後期:UKガラージ

90年代までに、トッド・エドワーズによる音の実験で進化を遂げたアメリカのガラージサウンドが大西洋を渡りました。そしてそのテンポがDJ EZをはじめとするロンドンのDJたちによって高速になり、やがてUKガラージへと発展していきます。引き延ばしたボーカル、うねりのあるベース、力強いスネア、2ステップか4つ打ちのビートがこのジャンルの特徴です。UKガラージのイベントはたいてい日曜に開かれ、人種の異なる客層を集めていました。その先駆けとなったのが、Happy Days(マット・ジャム・ラモントが立ち上げ、午前10時という早い時間からスタート)をはじめとするサウスロンドンのパーティや、Twice as Niceなどのクラブナイトです。そうして週末に繰り広げられていた当初のUKガラージシーンでは、独自の音楽性だけでなく、その特徴である意欲的な姿勢やスタイルも確立されていきました。頭からつま先までイタリア人デザイナーのものを取り入れ、モスキーノ、ヴェルサーチ、アイスバーグ、D&Gに、グッチのローファーを組み合わせたファッションが定番で、シャンパンを飲みながら、ダンスフロアでスタイリッシュに踊っていました。

主な曲
TJR feat. Xavier「Just Gets Better」
Double 99「RIP Groove」

 

90年代後期:K-HIPHOP

ソウルの弘大地区は、90年代後期の韓国ヒップホップシーンの発展において重要な役割を果たしました。アメリカのヒップホップが好きな韓国の若者たちが弘大に集まり、カセットテープやCDを貸し借りし、誰もが地元にヒップホップのクラブがないことを嘆いていました。そんな中、弘大のあるクラブが、K-HIPHOPを独自のアイデンティティを持つジャンルにまで育て上げます。それがMaster Planでした。夜間でもアルコールを提供せず、1997年から2001年まで、多くのオーディエンスを集めたオープンマイクセッションで、ラップとフリースタイルの聖地となりました。熱心な常連客は、バギージーンズやオーバーサイズのショートパンツにTシャツを着て、ベースボールキャップを後ろかぶりにし、アジアと欧米の影響を融合させたファッションとサウンドが生まれました。Master Planから誕生したヒップホップ界の著名人として、DJ WreckxやMC Metaなどが挙げられます。MC Metaは、NaachalとJ-Uと共にGarionというグループを結成して、誇りを持って韓国語のみのラップを繰り出し、ダイナミック・デュオ、バーバル・ジント、エピックハイといったK-HIPHOPアーティストたちの道を開きました。

主な曲
Seo Taiji and Boys「Nan Arayo」
Garion「Mutu」

Photo by Rebecca Lewis - A quick rest in the club. Nag Nag Nag, Ghetto, London, November 2002.

2000年代初期:エレクトロクラッシュ

エレクトロクラッシュは、ロンドンではソーホーのクラブナイトNag Nag Nagで、ニューヨークではDJラリー・ティーが2001年に開催したエレクトロクラッシュ・フェスティバルで、それぞれ人気に火が付きました。80年代のエレクトロ、ニューウェーブ、ヴィンテージテクノを、重々しい歌詞やディストピア的な感性と融合させたジャンルです。そのサウンドはもともと90年代後期に、ミュンヘンでDJヘルが主宰するInternational Deejay Gigolo Recordsによって確立されたものでした。このレーベルは、Miss Kittin & The Hacker、Tiga and Zyntherius、Chris Kordaによる、大きな影響力を持ったエレクトロクラッシュのトラックをリリースしていました。ロンドンのNag Nag Nag(キャバレー・ヴォルテールによる1979年のエレクトロインダストリアル曲にちなんだもの)の客層は、ナイトライフのニューカマーとクラブ通いの常連が入り混じった、LGBTQ+を含む幅広い構成でした。きちんとしていないことが条件というドレスコードで、自分で染めたスパイクヘア、ソフトモヒカン、プラスチックのサングラス、スキニージーンズ、派手なスローガン入りTシャツ、レザーとビニールを多用したスタイルなどが見られました。それがメディアで取り上げられ、ケイト・モス、アレキサンダー・マックイーン、ビョーク、ボーイ・ジョージ、プロディジーのキース・フリントといったファッションと音楽の世界の著名人たちも、この刺激的なシーンに注目するようになりました。

主な曲
Miss Kittin and The Hacker「Frank Sinatra」
Tiga & Zyntherius「Sunglasses at Night」

Photo by Suzy Del Campo - A new rave couple hold a camera and a glowstick, CSS gig, February 2007.

2000年代中期:ニューレイブ

90年代のレイブのめくるめく熱狂のスピリットを受け継ぎつつ、新世代のクラブキッズ向けにカラフルで冗談めかしたセンスを取り入れたものがニューレイブです。このムーブメントは、ソーシャルメディアサイトMySpace上で盛り上がり、複数のライフスタイル雑誌でも大々的に取り上げられました。ニューレイブを代表するバンドとしてクラクソンズとテスト・アイシクルズがよく挙げられるものの、ラッパー兼DJのNiyi(かつてポーチドエッグに対する自身の思い入れについて印象に残るラップを披露し、レディー・ガガのイギリスデビューライブのホスト役を務め、後年には影響を受けたアーティストとしてタイラー・ザ・クリエイターから名前を挙げられた人物)やNamalee ’n’ The Namazonz(「I Wanna B A Kartoon」などをリリース)もまた、ニューレイブのシュールな音楽とスタイルを広める上で重要な役割を果たしました。ロンドンでは、Anti-SocialやAll You Can Eateといったウェアハウスパーティやクラブナイトが多くの若者を集めました。そこでは、派手なスキニージーンズ、マンガのキャラクターがプリントされたネオンカラーTシャツ、アシンメトリーのヘアスタイル、ホイッスル、グロースティック、あらゆる種類のものをかたどったアクセサリーと、通常のセンスに抗う組み合わせのファッションが見られました。1年もたたないうちに、ニューレイブのテイストはパリ中のランウェイを席巻しました。

主な曲
クラクソンズ「Atlantis to Interzone」
ニュー・ヤング・ポニー・クラブ「Ice Cream」

Photo by Tilman Brembs - ‘Coming home,’ Berlin.

2000年代中期~現在:ベルクハインテクノ

2004年、Michael TeufeleとNorbert Thormannが、ベルリンの発電所の跡地にベルクハインというクラブを開業させました。ドイツの他の都市ではテクノのさまざまなクラブが活況を呈していたにもかかわらず、ベルクハインは最も敬愛されるクラブとして絶えず世界中から熱心なファンを引き寄せ、ベルリンが21世紀におけるテクノの中心都市として定義されるようになりました。ベルクハインが誇っていたのは、カスタムメイドの優れたサウンドシステムと、ベン・クロック、マルセル・デットマン、サミー・ディー、マルセル・フェングラーといった世界最高峰のテクノDJたち、そしていつも48時間にわたって続くパーティでした。ベルクハインでのスタイルは、ドレスアップしてもよし、最低限の衣服しか身に着けなくてもよし。ただし、筋金入りの常連客は、さまざまな色合いのブラックの、ショートパンツ、ベスト、トラックスーツ、Tシャツ、チェストハーネス、クロップドトップス、アーミーパンツ、スニーカーを組み合わせたポストアスリージャーのスタイルを好んでいました。ベルクハインのユニークで自由な雰囲気は、この上なく厳格なドアスタッフによって頑なに維持されており、外には長い列ができます。言うまでもなく、写真撮影は禁止。そうしたすべての要素によって、このクラブにまつわる神話と、格好を取り繕うことではなく踊ることへのこだわりが守られているのです。

主な曲
ベン・クロック「Subzero」
Robert Hood「A.M. Track」