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サブカルチャーライブ

Gilles Peterson’s Life in Music

2022年12月
Words by Scarlett O’Malley

音楽と共に生きるジャイルス・ピーターソン

どのような音楽を聴いて育ちましたか?青春時代を定義するアーティストを教えてください。
フランス人の母とスイス人の父の下、フランスで育ち、幼年期の終わり頃に初めてイギリスに来ました。ですから、子ども時代の音楽といったら、11歳を過ぎてフランス語学校からグラマースクール(中学校)に移り、仲間を探していた頃に聴いていたものですね。ちょうどアイデンティティが芽生え始める頃です。その頃によく聴いていたのは、ジャズやファンクやソウルでした。バンドでいえば、メイズとか、アース・ウィンド&ファイアとか。最初に買ったのは、ザ・スペシャルズとマッドネスのレコードです。当時は「One Step Beyond」に夢中でした。その後、ザ・スペシャルズに出会って。「Ghost Town」を超える名曲なんてあります?どこを取っても完璧な曲だと思います。エレクトリック・ライト・オーケストラの「Mr. Blue Sky」もよく聴いてました。スーパートランプも、大ファンでしたね。キャラヴァンの「In The Land Of Grey & Pink」にもかなり影響を受けましたし、アヴェレイジ・ホワイト・バンドの「Walk on By」もよく覚えてます。そうそう、レベル42の「Love Games」も。

若い頃は海賊ラジオ放送も大きな割合を占めていたのでは?
ええ、それはもう、海賊放送の存在は大きかったですね。16歳未満の音楽好きで、『Blues and Soul』や『Black Echoes』なんかの音楽雑誌をよく読んでて、パブやクラブに出入りできない子たちは、土曜のロニー・ヴィンセントや日曜の92.4 FMのRadio Invictaを聴くことだけが楽しみだったはずです。海賊放送は僕にとって絶対になくてはならないものでした。16歳の頃、自分自身でも自宅裏で海賊放送を始めたんです。鉄道模型セットを売って、Citronic Thamesのミキサーやディスコライト、地元のCB無線機の店のトランスミッターを買ってね。

その海賊放送ではどのような曲を流していたのですか?
ジャズファンクやブリットファンクです。ライト・オブ・ザ・ワールドが1980年にリリースしたアルバム『Round Trip』を流してましたね。当時僕は16歳で、14歳未満の子たちを呼んで友達と初めて開いたディスコイベントでもそのアルバムをかけてました。一晩つなぐだけのレコードがなかったので、そのアルバムの「Time」という曲を4回もかけたりして。他に流してたのは、レベル42やハイ・テンションの曲、アメリカの輸入盤、それとディスコ音楽も少しだけ。ラジオはずっと僕の生活の一部になってます。ものすごく大きな影響を受けていて、何をしている時もラジオをかけてます。コミュニティにおいてもかなり重要な要素になってますし、ムーブメントを起こすきっかけにもなっているんだなと実感しました。それこそがイギリスの素晴らしいところで、イギリスという国やそのクラブカルチャーを他の国とは違うものにしている要素の一つといえるでしょうね。ラジオはいつの時代も、クラブ以外で音楽をはやらせる、もう一つの場になってました。僕にとっては、ラジオはこの世界に入る魔法の手段でもありました。

先ほど、初めのうちはかけるレコードが足りなかったとおっしゃっていましたが、レコードを集め始めたのはいつ頃ですか?また、どのレコードがお気に入りでしたか?
キャラヴァンみたいなバンドに夢中でしたね。プログレにかなりはまってました。祖母がノルマンディの小さな村でホテルを経営してて、子どもの頃は夏によく遊びに行ってたんですが、週に一度町に買い物に出かける時に付いていって、10フランをもらってレコードを買ってました。最初の頃に買った3枚のレコードを今でも覚えてます。まず、ジョージ・デュークの『Liberated Fantasies』。それから、ネイ・ヂ・カストロの『Percussions Bresiliennes』と、フランス人ヴァイオリニストのディディエ・ロックウッドのアルバムです。若い頃はよくテニスキャンプにも行ってたんですけど、ある年の夏は『サタデー・ナイト・フィーバー』のサントラをずっとかけてたな。あれは本当に名盤です。個人的にとても重要な一枚で、当時かなり影響を受けました。

テニスクラブからナイトクラブに行くようになって、ナイトライフを楽しみ始めた頃の思い出を、ロンドンを中心に聞かせてください。
ジャズファンクのDJがいるサウスロンドンのパブに通っていた程度ですよ。サットンとかトルワースとか、ベルモントやキングストンの辺りです。最初の頃は、輸入盤をかけるDJがいるパブに行ってました。そういうパブの一つでDJがかけてた、リンクスの「You're Lying」のホワイトレーベルことは覚えてます。それまでに聴いた中でとにかく最高のレコードだと思いました。次の日、ホワイトレーベルや輸入盤をたくさん扱ってたSutton Marketに行ったんですけど、売り切れててすごくがっかりしました。他の思い出といえば、Caister Soul Weekenderは本当に素晴らしい体験でした。それから、パーリー のTiffany’sでのオールナイトイベントも。バンドのライブや金曜のブリットファンクのイベントを目当てに、ビクトリアのThe Venueにもよく行ってましたね。ブリットファンクにのめりこんでて。それから、レベル42の大ファンで、あちこち追いかけてました。5年くらい前にBBCのRadio 6 Musicで、リズ・カーショウが僕の目の前でレベル42のベーシストのマーク・キングにインタビューをしてた時は、信じられない思いでしたよ。何より最高だったのは、僕に会えてうれしいと言ってくれたことです。とても素晴らしいひとときで、それ以来友達付き合いをさせていただいてます。僕がDJとして初めてプロモ盤をもらったのはElite Recordsからで、それが「Sandstorm」だったんです。だからこの曲を聴くとすごく懐かしい気持ちになります。

ブリットファンクやジャズファンクについて聞かせていただきましたが、他に共感したナイトライフカルチャーや、十代を過ぎて好きになったサブカルチャーはありますか?
ダンスミュージックはどんなものでもよく聴いてましたね。忘れられない思い出になってるのは、スイスに住んでた兄 に会いに行った時に開催されてた、Montreux Jazz Festivalです。会場までの60kmの距離を、行きは電車で、帰りはヒッチハイクで往復しました。1週間ずっと行き続けたんですが、何がすごいって、午後のライブは無料だったんですよ。会場のセットも素晴らしくて、60年代のヨーロッパで最高のジャズフェスティバルでした。僕は夜に入り口の外で観客のチケットの半券を集めてたので、人がいなくなった後にジャズバンドに会えたりもしました。ナイトライフといえば、DJになった頃はよくワインバーにもよく行ってました。火曜の夜にイベントを開催してくれるように頼んで、自分も出てたんです。それからサウスゲートのRoyaltyみたいなクラブでもプレイできるようになりました。出させてもらえたのは、僕がいいからじゃなくて、観客を呼べたからですけどね。

世界中のナイトライフを見てこられていますが、ナイトライフシーンが急成長していて今最もエキサイティングだと思われる場所はどこですか?
アメリカはこれまでよりも少し良くなっていると思います。いつ行ってもとても楽しい国です。アメリカや日本の不思議なところは、まったく違う国なのに、自由にできる時間や休暇が少ないという共通点があることです。だからこそ、アメリカ人も日本人も遊ぶ時は本当に楽しんでますよね。ヨーロッパなら、フランスがとても面白いです。イタリアもそうですね。オーストラリアも最高で、メルボルンなんかはものすごくいいですよ。アムステルダムは後追いの街ですけど、今ではとても盛り上がってます。イタリアのアーティストなら、Nu Genea、DJ CoLLaB、Clap! Clap!が大好きで、応援してます。フランスならRoniが好きです。僕はフランスのセートでWorldwide Festivalというフェスをしてるんですが、クラブによく行ってる人たちを世界中から集められるという点で、僕がしてる最大のことといえます。

世界各地でのプレイで印象に残っているものについて聞かせてください。コロナ禍の後、特に印象的だったイベントはありますか?
まず何より、今ほどDJが楽しいと思ったことはありません。心の底から楽しんでます。大変な状況の中でどうにか工夫してうまくいくっていうのはいいですね。最近ではプリントワークスで、Erased Tapesっていうかなり大規模なテクノイベントでプレイしました。チャレンジングな体験でしたけど、なんとかやり抜いてうまくいった時は最高です。それからCross The Tracksでは、7,000人のオーディエンスの前でプレイしました。僕が好きな曲をミックスしたセットリストでどこが盛り上がるのか試しながら。僕はたぶん、フェスのヘッドライナーの悪いお手本でしょうね。レコードと大まかなセットリストだけ持って出るようなやつですから。160bpmのアフリカンテイストの曲から、ソーのアルバムの曲、アマピアノっぽい曲、フリージャズまで、何でもプレイします。Dimensionsでロスカに「ジャイルス・ピーターソンは自分の好きな曲を何でもかける」って言われましたけど、褒め言葉として受け取りました。

ブルーイ(ジャン・ポール モーニック)とタッグを組んで最近リリースされた最新アルバム『STR4TASFEAR』について教えてください。2枚目のシングル「Lazy Days」も大好きです。このアルバムは何にインスパイアされていますか?
2019年にブリット・アワードを受賞した時のタイラー・ザ・クリエイターのコメントがきっかけで作りたいと思ったアルバムです。ブリット・アワードの授賞式はあまり見ないんですが、生涯の功績をたたえる賞をもらいに来たタイラー・ザ・クリエイターが、「ブリットファンクがなければ、今作っているような曲は作れなかったでしょう」と言ったんです。「おいおい、みんなブリットファンクなんて知らないだろうに、ブリットファンクの話をしてるよ」って思って。それで古い友人のブルーイに声をかけました。彼は3つのブリットファンクのバンドのメンバーでしたし、何度も一緒に仕事をしてましたから、僕たちのブリットファンクのアルバムを作ろうと思ったんです。僕にとっては、1978年から1982年のブリットファンクの短い黄金期をたたえるアルバムでもありました。このアルバムでは、ブリットファンクに始まり、ストリートソウルを経て、ジャズの影響を受けた現代のファンクのライブシーンまでフィーチャーしていて、セオ・クロッカーやオマーなどが参加してくれました。同じくアルバムに参加してくれたエマ・ジーン・サックレイもストラータが大好きだと言ってました。僕が彼女にこのアルバムへの参加をお願いしたのは、まさに唯一無二の才能を持っている人だと思っているからです。ただ、知っておいてほしいのは、そういうアーティストたちが今の活動をしていられるのは、すべてブルーイのおかげだということです。ブルーイがいなければシーンは生まれなかったでしょうし、彼が今のシーンにつないでいるんです。ブルーイなくしてソウルIIソウルは存在しなかったはずです。インコグニート、フリーズ、ザ・ライト・オブ・ザ・ワールドが土台を築き、そこからジャミロクワイやザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズへ、さらにクレオ・ソルやソーへとつながってきたんです。彼がサーの称号をもらってないなんておかしいですよ。