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サブカルチャー

Dance Your Way Home(踊りながら帰ろう)

2023年8月
Words by Emma Warren
Photos by Peter J Walsh courtesy of Museum of Youth Culture

「ダンスフロアは、単なる現実逃避の場ではなく、連帯の場」—— エマ・ウォーレンは、自身の最新著書にそう記しています。その著書『Dance Your Way Home』では、アシッドハウスやダブステップといった影響力の大きいカルチャーのダンスフロアから、ウェディングディスコやオフィスパーティに至るまで、人々が一緒に踊る時に起こることについて語られています。以下の手記ではエマ・ウォーレンが、今ではアイコニックなクラブとして語られるSankeys Soapで、デトロイトテクノのレジェンドDJたちのプレイに合わせて踊っていた、1990年代中頃のマンチェスターでの思い出を振り返ります。

イギリスはダンス大国であり、その背景にあるのは若者たちの存在です。世界は常に変化し続けていますが、未来を担う若者たちが生み出すカルチャーには彼らの現実が反映されます。2000年までの最後の10年間も、10代半ばから20代前半の若者たちが、改修して造られたダンスフロアに集い、新たなカルチャーを生み出していました。昔の曲に新たな一フレーズを加えるようなムーブメントが広がっていました。

「他の人たちと一緒に踊るのは、受動的な行為ではなく、能動的な行為です。レコードを買ったりダンス仲間のために曲を作ったりすること、みんなが次の店に行くまでの5時間に踊れる場所を作ることなど、いろいろな行動につながります。」 エマ・ウォーレン

集団での踊り方は、時代とともに変化しています。大恐慌時代の北米で男女が賞金をかけて何百時間も踊り続けたダンスマラソンのように世代的に盛り上がった時もあれば、Quadrant Parkやハシエンダや仲間内で人気のクラブでカルチャーとして盛り上がった時もあります。また、世界的なハイパーキャピタリズムと利益志向の都市計画法に後押しされた不動産開発のあおりを受けて、クラブが次々と消えていった2010年以降のイギリスのように、集団で踊ることが少なくなった時もあれば、下火になったり、病気や不安や大切な人の死に直面したり、あるいは抑圧的な体制の下で、クラブ通いを止めてこっそり一人だけで、あるいは頭の中だけで、踊っていた時もあります。

1990年代には多くのダンスイベントがありました。サラ・チャンピオンの過去のクラブカルチャー調査に引用されていた実態調査によれば、1994年のイギリスにおけるクラブ動員数は2億人を超え、ダンスの動員力(本来「attendance」であるところ、私は「atten-dance」としています)の大きさがうかがえます。同調査では、ダンスが他のエンターテインメントと比較されており、スポーツ、映画、その他のライブイベントをしのぐ動員力を誇ることが明らかになっています。ヘンリー予測センターの経済学者の研究でも、1993年のイギリスにおけるレイブの動員数は5,000万人以上とされています。1991年の国勢調査で16~64歳の人口が3,570万人だったことを考えると、動員数5,000万人という人数の多さがよく分かります。

週に何度も、クラブ、ホームパーティ、半ば廃墟と化したアパートや倉庫で、シカゴハウスの一種やその類似ジャンルであるデトロイトテクノに合わせて踊っていた私のような人たちは、ダンスのステップを無意識に学んでおり、自分たちがダンサーだとも思っていませんでした。そうでない人たちがいたことも認識しています。コメディアンのジーナ・ヤシェレは、自叙伝『Cack-Handed』で、当時ブリクストンのFridgeで金曜日の夜に開催されていたソウルIIソウルのレジデンシーイベントに通っていたと記しています。ランニングマンやザ・ワップを何時間も踊っていた彼女は、「私たちの動きはすべて『Yo! MTV Raps』で見たものを1週間かけてまねしたもので、鏡の前で練習していた」と述べています。

1990年代のダンサーたちは、ダンスの場を広げました。プリマスやミドルズブラなどに行きたがる若者が増え、新たなクラブが次々とオープンしました。パブの奥の部屋や、大通りのディスコ、古い工場やバス倉庫を改修したクラブに、ダンサーたちが列を成しました。そうした場の多くはすでに姿を消し、忘れ去られつつあります。ストークオントレントなどの街のパワフルなダンスフロアカルチャーは、Shelley’sやVoidのようなクラブを通じて、イギリス全土に影響を及ぼしました。他のものがなくなった時、重要なのはカルチャーです。カルチャーは、お腹を満たしてくれることも家賃を払ってくれることもありませんが、誇りと歴史を与えてくれます。それが復活の出発点となるのです。

「イギリスはダンス大国であり、その背景にあるのは若者たちの存在です。」 エマ・ウォーレン

私はマンチェスター・ポリテクニックに進学してすぐに、求めていたダンスフロアを見つけました。そこでのダンスは、それまでロンドンのクラブで慣れ親しんでいたものとは違いましたが、私は改めてダンスに力を入れ、新しい情報を吸収し、アクセントを取捨選択する必要がありました。これは私や当時の時代に限ったことではありません。いつの時代でも、誰もが通る道です。ダンサーは周囲に合わせて動きを変えるものですが、そうしないなら違いを楽しむべきでしょう。当時は分かりませんでしたが、ダンサーたちがダンスの動きの構造において地域の特徴を排除していることが、今なら分かります。ソウルウィークエンダー(私が行ったことのないイベント)の影響を受けたサウスイーストロンドン郊外のダンスをしていた私は、マンチェスターの人たちの異なるダンスに出会いました。ある街の中だけでも、私たちはその地域のテイスト に合わせて踊っていました。Jam MC’sやHewan Clarkeのような華々しいDJの音楽に合わせて踊る、マンチェスターで生まれ育った人たちの動きは、イギリスの他の地域に染まっていた私のような学生の動きとは違っていたのです。

1990年代半ばまで、マンチェスター東部のアンコーツには、シティライフにおける最低限のものしかありませんでした。オールダム通りの突き当たりにある往来が多いメイン通りを渡って、ロッチデール運河と並行するジャージー通りに入ると、店が途絶え、代わりに廃れた紡績工場が立ち並んでいました。その道を10分ほど歩いた先に、Sankey’s Soap(後のSankey’s)がありました。その隣にはBeehive Millというオフィスビルがあり、私が勤めていた『Jockey Slut』誌のほか、ア・ガイ・コールド・ジェラルドのレコードレーベルであるJuice Boxや、ドラムンベースの草分け的DJとして知られるマーカス・インタレックスやハッピー・マンデーズの元メンバーが結成したブラック・グレープが使用していたスタジオなどが入っていました。タクシー会社も入っていて、ドライバーへの指示がオフィスのスピーカーからよく漏れ聞こえていました。街角によくあるパブや、サーバーから注いだ濃い紅茶を出す隠れ家的なカフェもありました。そこは、工業時代からポスト工業時代へと移り変わる中で工場が整理されて消滅していったかのように、寂れて空っぽになった工業地区でした。

『Jockey Slut』誌の編集者のジョン・バージェスとポール・ベニーが運営するBugged Out!の会場だったSankey’s Soapは、毎週ダンサーたちで超満員でした。常連客がダンスフロアのお気に入りの場所やせり上がったステージを我が物顔で占領し、テクノやさらに激しいハウスミュージックに合わせて4時間ぶっ通しで(時にはそれ以上)踊っていたものです。友人であり、『Jockey Slut』誌のライター仲間でもあったジョアンナ・ウェインは、十代の頃にノーザンソウルの若者向けクラブで鍛えられただけあって、ダンスは見事でした。流れるようなフットワークに、彼女が受け継いだ動きが見て取れました。他の人たちも、ボップダンスをしたり、ステップを踏んだり、体を揺らして拳を突き上げたりしていました。そうして突き上げられた腕がビートを刻んでいました。

ジェイムス・ホルロイドやロブ・ブライトといったレジデントDJや、数枚しかリリースしていないアルバムに並々ならぬ才能が感じられたテクノやハウスの優れたDJたちがプレイする音楽に乗せて、全員が動きを合わせていました。デトロイトテクノの変革者であるカール・クレイグが盛り上がるセットリストを披露した後、夜の終わりに、試合後のサッカー選手のようにTシャツの交換を迫っている汗まみれの元気な常連客を目にしたこともあります。その他にも、ザ・ベルズと未発売のアンダーグラウンド・レジスタンスのレコードを独創的に繰り返し流してダンスフロアを容赦なく打ちのめしていたジェフ・ミルズ、エネルギーのこもったヒプノティックテクノをプレイしていたカナダ育ちの痩身のDJリッチー・ホウティン、フェドラハットをかぶってディープでミニマルなボディミュージックを奏でていたロバート・フッドなど、ハウス系とテクノ系のレジェンドたちが来ていました。肘でスクラッチをしながら3つのターンテーブルを操るクラウド・ヤングのDJテクニックを踊りながら目撃したこともあります。次々と訪れるデトロイトテクノのDJたちを、街や、クラブや、ダンスフロアで熱狂する人たちが歓迎していました。

「定期的に踊りに行くことで積み重ねられていく関係です。つまり、ドアマンや入り口の料金係と顔見知りになること、軽く挨拶を交わすようになる人たち、プレイしているところを何カ月も見ているレジデントDJたち、集団的存在を通じて音楽の進化を目撃し後押しできることなどです。」エマ・ウォーレン

当時のダンス仲間だったデイブは、その強烈さを今もよく覚えているといいます。彼は、メールで連絡を取った私に、「ジェイムス・ホルロイドがかけた3曲に合わせて君と一緒に踊ったこととか、熱狂する君の顔とか、はっきりと覚えているよ」と話してくれました。「彼がトリを務めた数少ない夜の一つだった。君も僕と同じくらい彼の音楽を感じていたよね。本当に狂乱の時代だったな。今でも夢中になって踊るけど、妻が言うように、必ずしも腰でビートを刻んでいるわけじゃない。」

「ノスタルジア」をきっぱり否定するギル・スコット・へロンの意見に、私は概ね賛成です。昔の思い出には人を励ましたり許したりする力があるとは思うものの、物理的に昔のような場がない現状を前にして、「昔は良かった」と言う気もありません。また、数十年たっても変わらないものも数多くあります。それは例えば、定期的に踊りに行くことで積み重ねられていく関係です。つまり、ドアマンや入り口の料金係と顔見知りになること、軽く挨拶を交わすようになる人たち、プレイしているところを何カ月も見ているレジデントDJたち、集団的存在を通じて音楽の進化を目撃し後押しできることなどです。他の人たちと一緒に踊るのは、受動的な行為ではなく、能動的な行為です。レコードを買ったりダンス仲間のために曲を作ったりすること、みんなが次の店に行くまでの5時間に踊れる場所を作ることなど、いろいろな行動につながります。数十年前のマンチェスターでも、そのことに変わりはありませんでした。Touching Bassのコレクティブが2010年代後期にペッカムのベーカリーで開催したパーティでも、ヌバイア・ガルシアやモーゼス・ボイドといったダンスフロアとのつながりが深いロンドンの新人アーティストたちが取り上げられるようサポートしていたトータル・リフレッシュメント・センターでのパーティも、それは同様でした。過去30年に、Bugged Out!や、Touching Bassや、トータル・リフレッシュメント・センターなどの国内の類似施設に一度は通っていた人の多くも、かつては何かを返していたのかもしれません。バイブスを捉えるだけでなく生み出していたのでしょう。そこにいた人たちの多くが、ダンスから、ファッションや音楽やアートを生み出し、ビートに合わせて肩を揺らすことで、はかなくも根本的に貢献していたのです。

エマ・ウォーレン著『Dance Your Way Home: A Journey Through The Dancefloor』(Faber & Faber)は現在発売中です。