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サブカルチャー

From the Archive:
All Played Out

フロム・ザ・アーカイブ:オール・プレイド・アウト

2021年10月

この新シリーズでは、「From the Archive」と題して、私たちの最も特別な作品と、それを最もよく着用した人物を検証していきます。今期は、スペインのオリンピックスキーヤー、フランシスコ・フェルナンデス・オチョア(通称「スペインの謎」)が着用した1970年代のオリジナルジャンパーを復活させました。

“I didn’t strive to be good; champion was good enough for me.” Fred Perry

フレッド・ペリーの強い意思表示は、ローレルリースが持つダイナミックな象徴性に視覚的に集約されています。フレッド自身のシグネチャーであるローレルリースは、ギリシャ神話のアポロン神(スポーツ選手のような体格で知られており、月桂樹の葉の冠をかぶっていた)に由来すると考えられており、フレッドペリーというブランドと、彼自身が模範的なアスリートであったことを物語っています。そしてフレッドが立ち上げたブランドは、数十年という時を経て、さまざまな大陸のさまざまなスポーツ分野を代表するまでに成長しました。

設立当初は、夏のスポーツ、特にラケットスポーツのブランドとして知られていました。というのも、フレッド自身が卓球の世界チャンピオンであり、複数のグランドスラム大会で優勝したローンテニスプレーヤーだったからです。しかし今日では、フレッドペリーはファッションとスポーツの両方の意味合いで、世界的に有名なブランドとなることができました。

1952年に、今では英国デザインを代表するアイテムともいえる「M3」テニスシャツが発表されました。最初に作られたのは、白一色のシンプルなコットンピケのポロシャツ。スリムなシルエットと軽量で耐久性に優れていました。そして偶然にも、このシャツが完成したのは1952年のウィンブルドン開催中。そこで男性ロッカールームへ入ることを許可されていたフレッド自身が、すべての選手にシャツを配りに行ったのです。このようにしてウィンブルドンの神聖なコートで、フレッドペリーのスポーツウェアがデビューを飾りました。観客に人気のあったヤロスラフ・ドロブニーは、その年の男子決勝戦でこのポロシャツとサングラスというスタイルでコートに登場。するとフレッドペリーのシャツは、またたく間に人気アイテムになりました。試合には負けはしたものの、エジプト人のドロブニーのおかげで、会場にいた観客だけでなく、世界中の人々の前で、フレッドペリーのシャツはスタイリッシュなスタートを切ることができたのです。1950年代から60年代にかけて、ウィンブルドンで戦う選手たちは男女問わず、フレッドペリーのウェアを着て、チャンピオンを目指したのでした。

スペインの謎

スキー選手のフランシスコ・フェルナンデス・オチョアは、スポーツ選手としてのキャリアを通じて、”謎の人物”や”変人”と世間に思われていたようです。フレッドペリーのスポンサーを受けていた彼は、ゲレンデではフレッドペリーのウェアを着てトレーニングをしていました。そして1972年に札幌で開催された冬季オリンピックの回転で金メダルを獲得し、スポーツ界の偉業を成し遂げました。オチョアは15歳でワールドカップのスキーコースに現れ、周囲を驚かせた人物です。彼の母国の国民的スポーツといえば、雄牛と血が不可欠な闘牛。真っ白い雪の上でスピードや敏捷性を要するスキーとは対照的な競技です。スペインのスポーツ界の矛盾を具現化したような存在でした。そして寒さが厳しい日曜日の朝、札幌の手稲スキー場で、22歳のオチョアは、イタリアの従兄弟グスタヴォ・トエニとローランド・トエニをわずか1秒差で破り、金メダルを獲得するという偉業を達成。体をひねったり、回転させたりするテクニカルなスキーを得意とした彼は、”スキー界のマタドール(闘牛士)”と呼ばれていました。オチョアは自分の功績を「日本人が闘牛士のトップになるようなもの」と表現し、現在もスペイン出身の唯一の冬季オリンピックチャンピオンであり続けているのです。

報道陣が詰めかけた母国マドリッドのバラハス空港に降り立った彼の頭上には、つるで作られた巨大なローレルリースが被せられていました。そして各紙が彼の帰国を大きく報道しました。スペイン人が金メダルはおろか、オリンピックの表彰台に上るチャンスがあるとは誰も予想していなかったのです。しかし金メダル獲得により、オチョアの人生は大きく変わりました。その後、首にかけた優勝メダルの色と同じ金色のローレルリースが右腕に施されたフレッドペリーのスキージャンパーを着た姿がスポーツ誌『Hola!』に掲載されました。彼の人生とフレッド・ペリーの人生には大きな類似点があります。それはふたりとも労働者階級の出身でありながら、それぞれの分野で世界のトップになりスポーツ界における不朽の名声を得たことです。ちなみに、オチョアは木製のスキー板を使って金メダルを獲得した最後の世代でした。次の1976年のインスブルック冬季オリンピックからは、グラスファイバー製の板が革命を起こしたからです。さらに両者とも存命中にスポーツの成功を等身大の銅像という形で残すことができました。この像は、「スポーツでレガシーを残すために必要なのは意欲や野心であり、育った家庭の経済的背景はほとんど関係ない」ということを思い出させる大切な役割を担っています。