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サブカルチャー

ソウルから誕生したアシッドハウス



Words by Shola Aleje

1980年代、英国の若者たちが異なるビートに合わせて踊り始めたサザンソウルが、アシッドハウスにどのような影響を与えたかを探ります。

ノーザンソウルやアシッドハウスは、長年にわたり記録されてきた音楽シーンです。4分の4拍子のリズム。摩擦を減らすためにダンスフロアに振りかけていたベビーパウダー。タックインしたニット。アメリカで生まれた黒人音楽のソウルミュージックが、60年代後半から70年代にかけてイギリス北西部のユースカルチャーを熱狂させたことは、現代の私たちでもよく知っています。さらに1987年まで時間を進めると、イギリスのクラブではアシッドハウスというまったく異なるビートに身を委ねるクラバーたちの姿が。けれども、ノーザンソウルの直後に爆発的に流行し、そのアシッドハウスに影響を及ぼしたサザンソウルのシーンについて人々はどれだけ知っているでしょうか?

ソウルミュージックの大ファンだったDave Godinが60年代後半に考案した「ノーザンソウル」とは異なり、「サザンソウル」という用語は音楽史に残るほど注目されることはありませんでした。アメリカ南部で生まれた音楽と混同しないようにしなければいけませんが、サザンソウルという言葉は、おもにイギリスの南東部のみで使用されたものです。このジャンルが人気を博したのは70年代半ばのこと。

長年サザンソウル・シーンを取材してきたライターで研究者のDavid Buckinghamは「サザンソウル・シーンは、今までの音楽シーンに魅力を感じてこなかった、別のタイプのオーディエンスを対象としていた。このシーンの特徴は、1960年代のレア音源よりも、ジャズやファンクの影響を受けたコンテンポラリーなソウルが中心だった。ノーザンソウルの“ストンパー”よりもテンポは遅くビートも控えめだったが、ほとんどがダンスミュージックだった」と説明しています。

サザンソウルが始まった年を特定するのは容易ではありません。しかしノーザンソウルがピークに達した70年代半に行われたスラムの区画整理により、多くの人々が地理的な影響を受けたことが関係しているかもしれません。その後、南東部のクラブでは、ジャズファンク、ディスコ、フィラデルフィアソウルなどの新しいジャンルのミックスをプレイし始め、新たなシーンが誕生しました。このようにしてソウルボーイズとソウルガールズは新しいメッカを見つけたのです。

DJ、レーベルオーナー、ソウルボーイのTerry Farleyは15歳のときにHammersmith Palaisでサザンソウルを初めて体験しました。「Eddie Kendricksの“Keep on Truckin'”に合わせて踊る男性たちを見たこと、大きなサウンドシステムで初めてレコードを聴いたこと」を覚えていると語っています。

Farleyは10代の頃、電車に飛び乗ったり、誰かの車に乗せてもらったりしながら(英国でジャズファンクを広めたことで知られる)Crackersのような伝説的な70年代のクラブに通っていました。このようにして彼の音楽人生が始まったのですが、当時のソウルボーイズとソウルガールズはどんな服装をしていたのでしょうか?

「その頃は、映画から大きな影響を受けていました。当時流行っていた映画のひとつが『華麗なるギャツビー』だったのですが、この映画には1930年代のファッションがたくさん出てきました。だから、多くの若者は古着を好んで着ていたのです。ロンドンのキングスロードにある古着屋に通っていました。アメリカのボーリングシャツや中古のボーリングシャツ、カーペンタージーンズなどを買うために。1950年代のリーバイスが、ただ同然で手に入ったのです」

80年代初頭には、サザンソウル・シーンは本格的に商業化しました。今では有名になったオールデイヤー(終日イベント)は大規模になり、誰もが参加したいクラブイベントとなりました。「学校で服装をからかってきたヤツともフロアで一緒に踊っていました」とFarleyは語ります。

英国にハウスミュージックをもたらしたとされるDJ MauriceとNoel Watsonの前座をプレイした後、Farleyはデトロイト、シカゴ、ニューヨークから影響を受け当時はまだ新しかったテンポの速いハウスサウンドを初めて味わいました。そして87年の夏、イギリス中のクラブ、廃墟となった倉庫や野原に出現した新しい音楽こそが、現在アシッドハウスとして知られるジャンルとなったのです。

Farleyの『Boys Own』というファンジンは、イギリスにおけるアシッドハウスという新しいカルチャー・ムーブメントを最初に記録した雑誌のひとつです。Paul Oakenfoldが書いた「バーモンドジーからバレアレスへ」という記事では、イビサ島やバレアレス諸島のミュージックシーンが台頭してきたことについて解説していました。このシーンが英国で本格的に盛り上がるようになったのはその直後のことでした。

「ハウスシーンでプレイしていたDJはみんな、ソウル出身者でした」とFarleyは説明します。「ほとんどのレコード、特にディスコのレコードは、ハウスのレコードを作る人々に影響を与えていました。たとえ直接サンプリングしていなくても」