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サブカルチャー

シド・シェルトンと振り返るロック・アゲインスト・レイシズム

2022年9月
Words by James Anderson
Photos by Syd Shelton

70年代の終わりから80年代の初めにかけて、ロック・アゲインスト・レイシズム運動の下で、小規模なライブ、カーニバル、コンサート、抗議デモ、集会が、ロンドンを中心に次々と開催されました。その様子を精力的に撮影していたのがシド・シェルトンです。ロック・アゲインスト・レイシズム運動で体験したこと、そして新しい著書について、シド・シェルトンに聞きました。

ブラック・ライブズ・マター運動の大規模な抗議活動や集会が世界中で見られます。この運動では、特定のコミュニティに対する人種差別や警察の暴力に焦点を当てています。1970年代後半のロンドンでも同様に、ロック・アゲインスト・レイシズムと呼ばれる草の根運動が勢いを増していました。これは、当時台頭していた人種差別やナショナル・フロントなどの極右組織に対する、音楽を通じた抗議運動です。

この運動を率いていたのは、ジョー・レフォード、ロジャー・ハドル、ピート・ブルーノ、レッド・ソーンダズ、そしてヨークシャー生まれのシド・シェルトンでした。彼らは当初、大物ロックスターであるエリック・クラプトンがステージ上で人種差別的な発言をしたことをきっかけに行動を起こしました。まずはライブの開催を企画し、イギリスがさまざまな文化を擁する国であることを示し、レゲエ、ソウル、ロック、ジャズ、ファンク、パンクといった多彩な音楽の紹介に努めました。ロック・アゲインスト・レイシズムの創設者たちは、『Temporary Hoarding』という人気雑誌を活用してイベントの告知を行っていました。シェルトンは同誌のデザインに携わり、写真が掲載されるようにしました。

1978年には、ロック・アゲインスト・レイシズムにおいて最大の、最も象徴的な野外コンサートが、反ナチ同盟と合同で開催されました。会場となったのは、イーストロンドンのヴィクトリアパークです。イギリス全土から10万人が集まり、ザ・クラッシュ、スティール・パルス、ミスティ・イン・ルーツ、エックスレイ・スペックス、トム・ロビンソン・バンドといったパンクとレゲエの先駆者たちが出演しました。

シェルトンが当時撮影した優れたアーカイブ写真には、ロック・アゲインスト・レイシズムの大規模な集会における熱気、そこでの群衆と出演者たちが捉えられています。シェルトンはそれと同時に、イーストロンドンを中心としてさまざまなサブカルチャーポートレートもストリートで撮影していました。

彼のアーカイブ写真の一部と『Temporary Hoarding』のオリジナルグラフィックは、2016年に出版されたシェルトンの著書『Rock Against Racism』の初版で初めて発表されました。2022年9月にはそれを大幅に改訂した第2版が出版されます。

その伝説的な写真家であるシェルトンが、祝祭的な雰囲気が漂っていたロック・アゲインスト・レイシズムの激動の時代を振り返ります。

Grove Passage, London. 1979. Anti Nazi League activists Gavin and Ian ‘Skins Against the Nazis.’

ロンドンに移ってきたのは1976年でしたね。イギリスでパンクが生まれつつあった時代で、あらゆる政治的な衝突が起き、人種差別的な雰囲気が高まっていた時期でもありました。また、観測史上最も暑い夏となり、干ばつや水不足が起こって国中が不安に包まれていました。当時のロンドンはどのような様子でしたか?
当時は、第2次世界大戦以来最悪の不景気に陥り始めていた時期でもありました。つまり、ファシストや右翼が移民や黒人を非難の標的にし始める絶好の機会だったのです。とても恐ろしいことですが、人種差別が普通のことになる条件が完全にそろっていました。テレビでは、土曜夜のゴールデンタイムに『Black and White Minstrel Show』が放送されていて、何百万人もの人が観ていました。黒人やアイルランド人、ロマ民族は、いつもコメディアンたちの愚かなジョークのネタにされていました。その一方で、別のことがイギリス全土の労働者階級のコミュニティで盛り上がっていました。レゲエとパンクです。それらはこの国で人種差別と闘う上で必要不可欠なものでした。ストリートから生まれた反逆精神を掲げるそれらの音楽ジャンルがなかったら、ロック・アゲインスト・レイシズムは決して起こることはなかったでしょう。

ロック・アゲインスト・レイシズムに参加したきっかけは何ですか?
当時、エリック・クラプトンがバーミンガムのライブで、一連の人種差別的な発言をしました。これに対してレッド・ソーンダズたちが音楽メディアに寄稿し、「ロック・アゲインスト・レイシズム」と称して、一般の人たちによるロックを通じた反人種差別運動を呼びかけたのです。すると、驚くほどの反響がありました。数百人が、「素晴らしい考えだ、参加したい」と書き送ってきました。 そうしてたちまちライブが実行されたのです。ただ、初めのうちは小さなライブをあちこちで開催する、小規模な運動でした。私が参加したのは、オーストラリアから帰国して、レッド・ソーンダズに会ってからです。私たちは仲間になり、40年ほど経った今でも同志です。ロック・アゲインスト・レイシズムは、アーティスト、ライター、ファッションデザイナー、役者、ミュージシャンなど、いろいろな人が集まった素晴らしいグループでした。かなりアナーキーなグループでもありましたが、メンバーには二つの共通点がありました。一つは音楽を愛していたこと、もう一つは人種差別を憎んでいたことです。それに、非常に面白い時代でもありました。何しろ、セックスピストルズや、ザ・クラッシュ、スティール・パルスが出てきた頃です。

ロック・アゲインスト・レイシズムの伝説的なデモ行進について教えてください。ロンドンの中心にあるトラファルガー広場からイーストロンドンのヴィクトリアパークまで行進したと聞きます。
その日は、ロンドンを乗っ取ってやろうと、ライブを開催するためにヴィクトリアパークを押さえていました。単なる無料コンサートにはしたくなかったので、トラファルガー広場も押さえて、さらに平床トラックを7台借りました。荷台でバンドにプレイしてもらうためです。ミスティ・イン・ルーツ、ザ・ウォッチ、ザ・ピラニアンズがそれぞれの車上でパフォーマンスをしました。私たちは、トラファルガー広場からヴィクトリアパークまでの13キロほどを終日のパーティ会場にしたかったのです。当時私は、チャリングクロスロードのスクワット(不法占拠した建物)に住んでいました。当日の朝早くにトラファルガー広場に行ったら、すでにもう何万人ものパンクスが集まっていました。ほとんどがスコットランドから来たパンクスで、早朝に移動してきていたのです。その後、バーミンガム、ニューキャッスル、マンチェスター、ヨークシャーからのバスがどんどん到着しました。朝の9時までには、トラファルガー広場に5万人が集まっていました!ヴァージンだったかEMIだったか、レコード会社がホイッスルを10万個配布用に提供してくれたのですが、それをとりあえずみんなに配りました。その騒音たるや、耳をつんざくとはまさにあのことです!みんなバンドの周りに集まってきていました。そこから大きな音で音楽が聞こえていたからです。ものすごい光景でした。よく見る、従来の意味での抗議デモとはまったく別物です。あれはパーティで、それも13キロにも及ぶストリートパーティでした。何年も経ってからビリー・ブラッグが、「僕ら世代が味方についた日だった」と言っていました。 まさにそのとおりです。1930年代以来最大の反人種差別デモでした。あの場にいた人はみんな、決して忘れないでしょうね。

Southall Carnival against the Nazis. 22nd July, 1978. Fans dance to Misty in Roots who headlined the event.

決定的な瞬間は……
そうですね、大切なのは、その翌日にグレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)の選挙があったことです。選挙では、ナショナル・フロントの得票率が劇的に下がりました。あのカーニバルは、イーストロンドンのコミュニティの大きな自信につながりました!ものすごい数のロンドンの若者たちが、そして国全体も、自らの意志を表明したのですから。素晴らしいことです。そこから、1978年の夏はカーニバルの夏となりました。マンチェスターでも複数のカーニバルが開催され、ザ・バズコックス、グレアム・パーカー、ジ・オー・ペアーズ、アスワド、ミスティ・イン・ルーツが出演していました。ロンドンでの2回目のカーニバルはブリクストンで開催され、15万人が参加しました。このイベントは重要な節目となりました。なぜなら、発表された出演バンドの中にシャム69が入っていたからです。シャム69は、残念ながら人種差別主義者にとても人気がありました。

彼らはそれを望んでいなかったのですか?
望んでいませんでした!イベントの数週間前に、カーニバルでジミー・パーシー(シャム69のボーカル)の殺害を計画している人物がいるという通報が警察に入りました。それでジミーは出演の辞退を決め、才気あふれるスティッフ・リトル・フィンガーズが土壇場で代演してくれることになりました。ところがライブ中に、アスワドがパフォーマンスを終えた後、私がバックステージでフィルムを交換していたら、ジミーが現れました。まだバックステージパスを持っていたのですね。彼はバックステージエリアを通り、私の前を駆け抜けてマイクへと向かいました。そして、あの魂のこもった素晴らしい、人種差別に反対するスピーチをしたのです。ナショナル・フロントのファンを捨て、ロック・アゲインスト・レイシズムの支持を宣言したのですから、すごいことです。ジミーは涙を流していました。振り返って私を見た彼を撮影しました。不安でかなり取り乱した表情でしたが、素敵でした。あれはまさに、人種差別主義反対の決定的瞬間でした。ジミーがナショナル・フロントのファンを本当に切り捨ててしまったのですから。信じられないほど勇気ある行動です。15万人の前でですよ。

Clifton Rise, Lewisham, London. 13th August 1977. Civil liberties activists address ‘Anti-Anti Mugging March’ demonstrators from the roof of a public toilet block. Some 5,000 local people and anti-racist activists occupied New Cross Road. A quarter of the Metropolitan police, together with their entire mounted division, were deployed as escort to the NF demonstration.

そうしたイベントの撮影で、特に難しいことは何でしょう?
当時一日中持ち歩いていた機材の量を考えると、体が傾かなかったのが不思議です!使っていたカメラを今でも持っています。モータードライブ付きの大きくて重い金属製のニコンM3です。ただ、その場の熱気がすご過ぎて、アドレナリンの勢いで動けてしまうんですよね。写真では、今自分が何を撮れているのか決して分からない。丸一日かけて撮影しても、何も成果がない時もあります。写真を撮られることに対して、今の人たちは昔よりずっと慣れていますよね。70年代から80年代の初めには、ポーズを決めてもらうのにも、今よりもっと指示を出さなければなりませんでした。ストリートポートレートをたくさん撮影しましたが、被写体となる人物とは良好な信頼関係を素早く築かなければなりません。リンダというまったく知らない女性を撮影した時は、彼女自身をさらけ出してくれるまでかなり時間がかかりました。彼女はガードがとても堅くて、ちゃんとしたものが撮れるまでにフィルムを10本は使ったでしょうね。ところが、セットを整えてそこに誰かを立たせて撮れば最初の一発でうまくいくという時もあるんです。

Linda. Hare Rowe, Tower Hamlets 1979. I used this location for portraits and used to call it ‘my studio’.

ロック・アゲインスト・レイシズムを撮影した写真を集めた書籍を数年前に出版されましたね。それまでのいきさつを教えてください。
当時はあの写真に物語があるなんて、考えてもみませんでした。その後何年もしてから、写真を眺めていたキャロル・チュラック(その後に私の妻となり、今はロンドン芸術大学で教授をしています)に、「見て、ここにはストーリーがある」と言われたのです。 それらの写真には、群衆からデモなどに至るまで、全体を通して一つの物語があると。それで、本にまとめることにしました。それは、ロック・アゲインスト・レイシズムを定義するストーリーではなく、活動家兼写真家としての非常に個人的な視点と交流についてのものです。存在さえ忘れていた写真が続々と出てくるので、9月に『Rock Against Racism』第2版を出版することになり、写真を多く掲載しています。初版には『Temporary Hoarding』という雑誌のグラフィックの一部も掲載しましたが、今回はかなり焦点を絞りました。それから、レッド・ソーンダズによるあとがきもあります。初版には入れなかった、私が誇りに思っている珠玉のカットも数点掲載しています。

例えば?
ハックニーの人たちです。それから、北アイルランドで撮影した写真も数点追加しました。アイルランド人差別との闘いにはかなり熱心に取り組んでいたので。ベルファストには2回行ったことがあります。自分の目で実際のところを見て、モンスターとして描かれた人々に人間の顔を持ってもらいたかったのです。出会った人はみんな非常に親切で、温かくもてなしてくれました。

ロック・アゲインスト・レイシズムを撮影したあなたの写真には、今でもとても現代的に見えるものもあります。現代のファッションデザイナーたちがそこからインスピレーションを得ていることも考えられるのではないでしょうか。若者たちの服装や髪型やメイクと、ファッションが持つパワーについて、当時はどの程度意識していましたか?
その当時に意識していたかどうかは覚えていません。どのくらい関心があったかも分からないですね。ただ、いい例として挙げられるのは、若い黒人3人組の写真です。1981年に、リーズでのザ・スペシャルズのライブで飛び跳ねているところを撮ったものです。彼らはみんなスキンヘッズのアイテムを身に着けているので、私のお気に入りの一枚なんです。ハリントンジャケットにボタンダウンのシャツとサスペンダー。ジャマイカのルードボーイスタイルで、たくさんのスキンヘッズが影響を受けていました。リーズにいたこの若いルードボーイたちは、オリジナルのルードボーイのスタイルを復活させるか、スキンヘッズを通して再アレンジしています。そういうスタイルのミックスを表しているものはとても好きですね。あなたの言うとおり、これらの写真にはスタイルの観点でとても貴重なポイントがありますよね。そういうことも、当時より今の方が分かるようになりました。

Specials fans. Rock Against Racism/Anti-Nazi League Northern Carnival Against the Nazis, Potternewton Park Leeds 1981.

40年前のロック・アゲインスト・レイシズム運動と、最近のブラック・ライブズ・マター運動との間には大きな共通点があると思いますか?
そうですね、大きな共通点があると思います。『Rock Against Racism』第2版の出版元であるロサンゼルスのレア・バード・ブックスは、ブラック・ライブズ・マターに大きく携わっていて、そこからインスピレーションを得ています。興味深いですね。共通点はあります。人種差別との闘いは決してなくなることはあることはありません。人種差別とは、右翼が私たちの生活を分断するために利用するものです。生まれながらの人種差別主義者はいません。人は差別を学ぶのです。それはとても長くて時間をかけたプロセスです。新聞や学校を通じて、ポタポタと滴が落ちるようなスピードで、人種差別が植え付けられるのです。人種差別に反対するだけでは不十分です。人種差別と闘わなくてはなりません。

シド・シェルトンの写真はこちらのInstagramで見られます。

2022年9月29日にレア・バード・ブックスから出版されたシド・シェルトンの著書『Rock Against Racism (1976-1981)』は、現在発売中です。

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マーク・ムーア:ロック・アゲインスト・レイシズムでの十代の思い出

70年代後半、マーク・ムーアは音楽に夢中な十代のパンク少年として、劣悪なワンルームやスクワットを転々として暮らしていました。彼とその幅広い友人たちが、ロック・アゲインスト・レイシズムによるライブやデモ行進、カーニバルに引き寄せられたのは自然な流れでした。

その後、年月が過ぎ、ムーアはDJ兼プロデューサーとして大きな成功を収め、フロントマンを務めた80年代後半のアシッドハウス全盛期のバンドS’Expressは世界のチャートで1位を占めました。

ここではムーアが、しばしば暴力的で人種差別的だった当時のロンドンの様子を、ロック・アゲインスト・レイシズムのイベントで体験した若さゆえの興奮、未来に対峙するスタイル、前向きさ、音楽と重ね合わせて振り返ります。

「『NME』や『Melody Maker』、『Sounds』で、ロック・アゲインスト・レイシズムについての記事を読んだのを覚えています。1978年にヴィクトリアパークで観たザ・クラッシュのライブが、私にとって初めてのロック・アゲインスト・レイシズムのイベントでした。とても大規模なイベントに思えて度肝を抜かれました!

人種差別は当時、日常生活の一部になっていて、大勢の一般人に根深く植え付けられていました。パンクのライブにたむろしていたら、スキンヘッズによく出くわしました。ナショナル・フロントかブリティッシュ・ムーブメントの支持者のどちらかです。ライブではしょっちゅう乱闘が起こっていましたし、つかの間の停戦に至ることもありました。そんなおかしな人種のるつぼの中に、カネなくして未来なしという考え方でひとくくりにして放り込まれたおかげで、知り合いの人種差別主義のスキンへッズの中にはついに目を覚ます人もいました。人種差別主義の集団意識ばかりではなく、他の見方を持ってみるだけでも、もっと広い世界に目を向けるきっかけになると思います。そうなれば、肌の色に関係なく、人間は人間だと気付きますよね。もう一つ、ぜひ言っておきたいとても大事なことは、スキンヘッズが誰しもナチの凶悪犯であるわけではないことです。当時のスキンヘッズの中にもいい人はたくさんいました。

Goulston Street, Petticoat Lane, London. 1979. Kevin and Lee.

ロック・アゲインスト・レイシズムのライブに来ていたのは、ほとんどがパンクかニューウェーブかポストパンクの見た目の人たちでした。学生も大勢いました。なんてことのない感じの人もいましたが、中には流行に合わせてバッジをいくつか着けたり、ツンツンヘアやフロッピーヘアにしたりしていた人もいました。1978年当時、私は確か、ラモーンズ風のレザージャケットにバッジをびっしり着けていたように思います。それに安物のボンデージパンツとフェイクレオパードスキンのおむつ、自作のTシャツを合わせていました。

ただその場にいるだけでワクワクしました。ザ・クラッシュはすごかったです。ザ・スリッツにはネナ・チェリーなどがいましたし、その後テレビでシェフのスーパースターになったアンディ・オリバーが一緒に踊ったり歌ったりしていました。ボーカルのアリ・アップはあらゆる面で母性あふれる人になって、バンドの音楽はワールドミュージック的になっていきました。当時はそういうジャンルさえありませんでした。彼女たちは全員飛び跳ねていて、大胆で、堂々としていて、ただただ圧倒されました。いろいろな人種が入り混じったガールズバンドで、ステージではとにかくぶっ飛んでいました。ファッションも最高で、いろいろな被り物やリボンを着けたり、布切れを衣装に縫い付けたりしていました。80年代にはみんなが彼女たちのファッションをまねしていました。マドンナもその一人です。

振り返ってみると、あの時に観たバンドや行った場所のほとんどが、その後歴史的に重要なものになりました。でも当時は、そんなことは思ってもみませんでしたね。」

マーク・ムーアのInstagramはこちら