レイヴ・ロード

サブカルチャー

Museum of Youth
Culture:
The Rave Road

レイヴ・ロード

2020年9月
Words by Jamie Brett, Museum of Youth Culture

民族としての集い、原始的な連帯感、自主制作的クリエイティビティの奥深い歴史が、ダンス・ミュージックの波打つベースサウンドに魅了され一体化した――これが、レイヴ・カルチャーの核にあるものです。

人の集まりを示す最古の記録以来、洞窟壁画には大昔の人々が獣の皮で出来た太鼓の音に合わせ身体を動かす様子が描かれています。アフリカ、インド、オーストラリアに現在も残っている同様の祝祭から判断すると、共に踊りたいという自然な欲求を高め強化することを目的に作られた音楽の反復的ビートによって、人々が内なる本質としてエネルギッシュにつながってきたことがわかります。

時は飛んで1960年代後半、ムーグのような電子シンセサイザーが市場に登場するようになりました。ジャマイカでは自作のダブのサウンドシステムが生まれ、ビッグ・サウンドとエレクトロニック・ミュージックの初期の実験が始まります。そして1980年代前半にはローランド808やローランド909のようなドラムマシンやリズムマシンが登場し、世界はベース、リズム、轟きわたる音の反復による太古のサウンドに再び触れ合う機会を得たのです。


Jah Revelation, Roots Style N’ Passion, Notting Hill, London, 1985 by Beezer

大西洋を越えて1980年前半のアメリカではハウス・ミュージックのサウンドが、アンダーグラウンドの黒人ゲイ向けウェアハウス・パーティーで産声を上げます。パーティーが行われていた自動車工場の廃屋は、デトロイトやシカゴなど中西部の都市で疎外された人々が、経済崩壊の残骸であるがらくたにまみれて集まる場所でした。モータウンやディスコのサウンドを次第に凌駕していったハウス・ミュージックは、米中西部の海賊ラジオ局で流れ始め、本来の黒人ゲイのリスナー層からアメリカの一般大衆へとオーディエンスを広げていきました。こうしたハウス元年に収録された貴重なカセットテープの音声は、YouTubeで聴くことができます。DJがミキシングやスクラッチ、トラックに重ねたトークを始めた頃のサウンドで、現代のハウス、テクノ、ドラムンベース、UKガラージなど全世界に名高いさまざまなサウンドの先駆けとなっています。


Techno Pioneer Carl Craig in Detroit, USA, 1987 by Normski

ディスコ・ミュージックはオールナイト・パーティー用に途切れなくミックスされプレイされるように考案されていました。しかし、イビザ島のクラブにアシッド・ハウスが登場し、チルアウトしたバレアリック・シンセ・サウンドがデトロイトの破砕音ベースと融合して新たなサウンドが誕生したとき初めて、エクスタシーなどアメリカから輸入されてきたドラッグの人気も相まって、24時間すべてを超越し脇目もふらずダンスミュージックに夢中になる体験が始まったのです。これは以後40年近くにわたって続いています。

この新しいサウンドを英国にもたらす上で重要な役割を果たしたのが、マンチェスターのクラブ「Hacienda」で行われたクラブ・ナイトでした。イベント「HOT」を名前ごとイビザから持ち込んだこのインディー・クラブは、リスクを冒し、人出の少ない水曜夜にマイク・ピッカリングとジョン・ダシルヴァがマンチェスターにアシッド・シーンを持ち込むことを許可したのです。結果は大成功で、破産の危機に瀕していたクラブはやがて世界的名声を手に入れることになりました。


Acid House Ravers at The Haçienda, Manchester, 1989

レイヴ・サウンドがサッチャー政権下のイギリスで保守政策と衝突し始める中、何千人という若者たちが、それまで時代遅れな味もそっけもないナイトクラブだった会場でパーティーを始めました。さらに米中西部の黒人コミュニティと同様、いまや荒廃し貧困な地域となった北部イングランド工業地帯で無人の工場跡を使い始めたのです。

かつて父祖が働いた工場跡を再利用した若いレイヴ参加者たちはタービンや機械音のかわりに、ポップ・ミュージックと肉体労働と保守政策から逃れた自由な生き方の宣言として、アシッドハウスやハードコアブレイクビーツの強烈なキックドラムやシンセの吸引音を轟かせました。

Freedom to Party protest in Trafalgar Square, London, 1990 by Gavin Watson
Ravers in High Wycome, 1980s by Gavin Watson

実際、家を売って古いバスやトラック、場合によっては旧東欧の軍用車両を買った若者は大勢いました。彼らはそれを移動住宅にし、改造したパワフルなジャマイカ製ダブ・スピーカースタックを積んだのです。こうした移動レイヴ集団の強力なサブカルチャーが、エコロジー活動家としての戦略で既に存在を確立していたニューエイジ・トラベラーと一体化したことは、危機に晒されていたレイヴ・カルチャーの存命に一役買いました。

1994年になると英国政府は大規模な無認可の屋外レイヴを取り締まるため公式の特別委員会を立ち上げ、「反復するビートが続く」イベントを禁止する法律を制定しました。これに抗議し、反クリミナル・ジャスティス法デモが英国各地で起きるとともに、非合法の屋外レイヴはロンドンをぐるりと囲むM25モーターウェイの外側で引き続き開かれて最大25,000人をも集め、新聞の扇情的な見出しと国民のモラルパニックを呼ぶ結果になりました。

Bar Truck, Steart Beach, Bridgwater Bay, 2002 by Molly Macindoe
Crowd at Stonehenge, Summer Solstice, UK, 2001 by Adrian Fisk

90年代半ばにかけてトニー・ブレア率いる小ぎれいなクール・ブリタニア的風潮が台頭し始めるにつれて、全国に抗議運動が広がり世間一般では「薄汚い」レイバーたちに対する嫌悪感が募っていきます。こうした動きに対し、既に確立されていた移動レイヴ集団によって10年にわたるヨーロッパとの絆が築かれていきました。彼らはヨーロッパ各地に広がり、アシッド・ハウスやテクノのサウンドをフランス、スペイン、ドイツ、イタリアなどの国々にもたらしたのです。

こうしたフリー・パーティーはあらゆる地形、気候、方言のヨーロッパ各地で、砕石場跡、森林、工業用地を利用して突発的に行われ、エレクトロニック・ミュージックの連帯サウンドを人々に届けながら、旅の途中でローディーを拾い上げ、一生続く友情に出会っていきました。

エレクトロニック・ミュージックの波紋はヨーロッパ大陸全土に勢いよく広がりました。イタリアでは、独自のディスコの系統を引くピアノ主体の軽快なハウス・ミュージックが生まれ、イタロ・ハウスとして知られるようになります。そして80年代イタリアン・デザイン(特にメンフィス・グループ)による紛れもないビジュアルは、全世界のナイトクラブのインテリアに影響を与えていったのです。国境を渡ったドイツではベルリンの壁の崩壊後、ハードな4つ打ちのテクノが登場して独自のジャンルに進化し、ダークでハードなキックドラムとブルータリズム様式のコンクリートのビジュアル、そして密かに享楽的なスクワット・レイヴのエネルギーを特徴とするようになりました。その結果、ベルリンはしばしばテクノ震源地として見なされ、BerghainやTresorのようなミステリアスなスーパークラブには全世界から人が訪れています。


Flyer for The Fantastic Ibiza, 1989 by Chelsea Louise Berlin

A Squat Rave, Cardiff, 2018 by Aiyush Pachnanda

このアイコニックな「Rave Road」展を祝福し、フレッドペリーはMuseum of Youth Cultureとのコラボレーションにより、国を越えた友情と文化的つながりのパワフルな物語を一連のオンラインおよびインストアの展覧会で紹介します。その過程で、それぞれが独特でありながら結び付きのある知られざるレイヴ史を通じて、ヨーロッパの各店舗のつながりをご紹介していきます。