アーサー・アッシュの永遠のレガシー

TENNIS

The Enduring
Legacy
of Arthur Ashe

2020年7月

アーサー・アッシュの永遠のレガシーと、テニスを起爆剤にして変化を呼び起こしたその生涯を振り返ります。

時は1975年。冷静で落ち着き払ったアーサー・アッシュがウィンブルドンのコートに足を踏み入れようとしていました。彼は「USA」と刺繍の入ったトラックジャケットを脱ぐと、現れたのは70年代風の大きなブルーの襟がついた白のポロシャツと、アッシュのシグネチャーアイテムであったコンパクトな短い白のテニスショーツ。これからキャリア最大の試合に目前に控えているにしては信じられないほど落ち着いているように見えます。でも、それこそが全く動じない男、アッシュなのです。対戦相手は、同郷のアメリカ人、ジミー・コナーズ。2人はこれからウィンブルドンの男子シングルスのタイトルをかけて戦うところでした。

アッシュとコナーズがコート上で出会うのはこれが初めてではなく、わずか2年前、アッシュは南アフリカオープンの決勝戦で立て続けに2回コナーズに負けています。でも、今回は違いました。アッシュは予想外のゲームプランがあったのです。アッシュの場合、身体能力だけでなく、頭の回転の速さも強みでした。そして他の大半の選手より機敏だったのです。この試合では、彼は巧みに計算された柔らかいショットを用い、スムーズなバックハンドによって相手が予想しないオープンスペースを作ってみせました。

32歳の誕生日を1週間後に控えたアッシュは、キャリアの全てをかけて目指してきたタイトルを手にしました。ウィンブルドンの公式なチャンピオンなったばかりでなく、このタイトルを初めて獲得した黒人男性となりました。どちらも記念すべき偉業です。

アッシュの勝利は、入場時と同じように穏やかで、握りこぶしを一回突き上げて歓喜を表現しました。それは人種平等を求めて全キャリアを戦ってきた男性にとっての、力強い象徴でした。

アーサー・アッシュが育ったバージニア州リッチモンドは、当時、第二次大戦後のアメリカでもいまだに大半の生活が人種差別によって支配されている地域でした。学校、バス、公園、遊び場はすべて、残酷な規則に基づいて区分けされていました。

少年時代のアッシュはシャイな子供だったので、アフリカ系アメリカ人が直面する困難を嫌というほど経験し、我が子の身を案じた両親から、トラブルに巻き込まれないようにと言われて育ちました。アッシュは自宅からわずか20メートルの場所にあった公共のテニスコートに通い、プレイの仕方を学びました。彼はここで初めてラケットを手にし、テニスへの情熱を見出したのです。

12歳の時、バード・パークで開かれたリッチモンド・シティ・トーナメントに参加したアッシュは、コート上で初めて差別を体験しました。この公園は人種隔離が行われており、たとえどんなにテニスが上手でも、黒人の子供は入ることが出来なかったため、幼いアーサーは大会へのエントリーを拒否されました。

抑圧を受けて耐えるのは、よほどの人でなければできないことです。でもアッシュはまさにそれをやってのけたのです。両親に教えられた静かな忍耐力をいっそう強化したのが、後にテニスのメンターとなったロバート・ウォルター・ジョンソン博士でした。黒人テニスのゴッドファーザーと呼ばれるジョンソンは、スポーツにおける人種の壁を打ち破ることを提唱し、制度が抱える問題を熟知していました。ジョンソンは生徒たちに、コート上ではどんなに不当な扱いを受けても礼儀正しく物静かにしているように、と教えました。テニスのようなスポーツで黒人が成功する唯一の方法は、圧倒的な冷静さを持って行動することだ、というのがジョンソンの考え方でした。このアドバイスがあったからこそアッシュは、ホテルで一泊できないときは疲れても車で移動し、肌の色を理由に何度も旅行ビザを拒否されても乗り越えることができたのです。アッシュはすべてを冷静に受け止め、ただひたすら最終目標に焦点を当てていました。

こうした揺るぎない忍耐のもとに、アッシュは1963年のデビスカップ、UCLAのスカラーシップに出場し、5年後には全米オープンで初のグランドスラム・タイトルを獲得しました。テニスのランキングが上がるにつれ、アッシュは仲間のテニスチャンピオンたちからサポートを受けるようになりました。フレッド・ペリーからも、ローレルリースの下にお決まりの彼のイニシャルが入った白のポロシャツが贈られました。これはテニスという特権的な世界に容易に受け入れられなかったもう1人の男からの、無言の感謝の表明でした。

しかし、ひとたび足掛かりをつかむと、アッシュはテニスを変化の起爆剤として利用し、これまでと変わらず常に見せてきた冷静さで、信念を貫いて戦う姿勢を見せ始めました。彼は最初の一歩として、より多くの子供たち―自分と同じように育った子供たちもテニスに参加できるようにしたいと考え、素晴らしい新たな取り組みを始めました。「テニスをすべての人に」という彼のモットーを要としたこのプログラムは、当初、放課後の活動がない貧しい地域のコミュニティに向けて開かれました。アッシュが会長であることは大いに役立ち、変化を提唱するうえで重要な一歩となりました。

一方、コートでは権威ある組織の中で正義を求めて戦い、新たに結成されたATP(プロテニス選手の労働組合)で理事になりました。70年代前半には、ウィンブルドン大会への出場条件は非常に厳格なルールがあり、新進気鋭の海外のプレイヤーの出場は不可能な状況でした。ATPの要望はシンプルで、選手の権利を高め、組織による統制を減らすというものでした。1973年、ATPはアッシュを先頭に選手のストライキを起こし、テニス界に対抗しました。その年、前年のウィンブルドンチャンピオンだったスタン・スミスを含む81名の選手が大会への参加を拒否しました。選手たちの努力が実を結び、2年後の夏、ウィンブルドンに復帰したアッシュは、男子シングルスでチャンピオンになりました。勝利者インタビューで彼は穏やかな口調で次のように語りました。「私は踏みにじられるのがどんなことか知っています。そして、黒人のヒーローが逆境にめげず勝利するのをこの目で見た経験もあります」

ウィンブルドンで忘れがたい快挙を成し遂げたアッシュのキャリアは、突然途絶えました。36歳で心臓発作を起こしたのです。その後、アメリカのデビスカップチームで競技を行わないキャプテンとなり、若きジョン・マッケンローの初期の指導者となります。アッシュの物静かな態度は、コート上でマッケンローが引き起こす悪名高い暴言の一種の解毒剤となっていました。アッシュが率いるUSチームはデビスカップで2年連続優勝を遂げ、その後アッシュは2度目の心臓手術のために入院しました。

悲劇的なことに、この2度目の手術でアッシュはHIVに感染してしまいました。しかし、コートで見せたのと同じ断固たる決意で戦い続けました。1992年、アーサー・アッシュエイズ撲滅基金を設立し、病気と闘う人々に対する認知を高めるとともに、治療に重要な資金を募りました。様々な面で手本となる存在だったアッシュは、エイズを患っても普通の生活を送ることができることを示して見せました。1993年に亡くなる直前まで、デモや慈善事業のイベントに参加する彼の姿が見られました。

今日もアーサー・アッシュのレガシーは引き継がれています。没後に名付けられたアーサー・アッシュ・スタジアム、彼の自叙伝の中に記された心を揺さぶる言葉、そして平等を目指して闘うアッシュの飽くなき努力を通して。彼の故郷のバージニア州リッチモンドのモニュメント・アヴェニューには、アーサー・アッシュの像が誇らしげに立っています。片手にラケットを持ち、もう片方の手には本を抱えています。この姿はコートの内外でアッシュが成し遂げたことを象徴する力強いシンボルです。