若者のエネルギー、そして自由

SUBCULTURE

The Energy and
Freedom of Youth

若者のエネルギー、そして自由

2020年9月

フレッドペリー x ラフ・シモンズのコレクションは、アイコニックな100 Clubの75周年を記念した「100 Club Stories」に掲載された、ソーホーのクラブキッズとパンク・クイーンがロンドンのナイトクラブに敬意を捧げた写真をプリント。

Nightclubbing
Words by Iain R. Webb

「いつ出かけるべきか、部屋に残るべきか、そんなの分かってる」

我々が置かれているこの奇妙な時代を考えると、デヴィッド・ボウイが1983年に発表した「Modern Love」冒頭の歌詞は不気味な未来を予測しています。

僕がクラブキッズになったのは、ソーホーの中心にある有名なアートスクール、セントラル・セント・マーチンズでファッションデザインを学ぶため、1977年にロンドンにやって来たときのことです。ウィルトシャーの僻地の小さな村出身の僕に、ソーホーはあらゆるスリリングな夜の娯楽を提供してくれました。それはいつもみすぼらしい階段を下りた先にありました。これは多くのナイトクラブが地下にあることを物語っています。アメリカの人類学者テッド・ポレマスが、かつて「ダンテの地獄への堕落」に例えたことがある、地下の領域です。

ナイトクラブは昔から、社会の片隅で生きている者たち、はみ出し者やよそ者にとっての隠れ家、日常の退屈な現実から逃れるための場所でした。1970~80年代、僕たちは決して健全とはいえない地域でスクワットと呼ばれる無断占拠した建物や低家賃の高層公営団地に住んでいましたが、未来のない職に就いていたり、失業中だったり、あるいはアーティストになる儚い夢を見ていたり、そんな労働者階級の若い男女も、夜になればダンスフロアで主役になれたのです。ゲイ・クラブは、今でいう「誰にも判断さることのない安全な場所」を提供し、客層はどこもほぼ同じとはいえ、各クラブに独特の外観やムードがありました。メイフェアの中心には、きらびやかでミニStudio 54ともいうべきThe Embassyがあり、遠く離れたアールズ・コートには陰気で冴えない巨大な倉庫のようなThe Copacabanaもありました。寝室サイズのWhite Trashも、二階建てのスーパークラブ、Bangもありました。僕のお気に入りはEl Sombreroで、ダイニングテーブルぐらいのサイズのライトアップされたダンスフロアがあり、DJ Rudy としても知られるEmilio Fariñaがオーガナイズしていました。

僕にとって音楽とファッションは同じ一枚の布から切り取ったようなものだったから、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、バズコックス、ブラック・スレート、マガジン、エルヴィス・コステロ、ウェイン・カウンティ& ジ・エレクトリック・チェアーズ、イギー・ポップ、そしてデヴィッド・ボウイなどのアーティストを観に、100 Club、Hope & Anchor、MusicMachineに行っていました。ボロボロのブルーのモヘアセーターを着てプラスチックのサンダルを履き、下手くそに染めたヘアースタイルでね。

80年代のクラブキッズ、いわゆる悪名高きBlitz キッズ(僕もその1人だった)は、パンクに対してダイレクトに反応しました。その当時、パンクは本来のDIYスピリッツを見失って見苦しい均一なものになっていたんです。Blitz キッズはドレスアップしたがっていた。個人の自由と独創的な発想を抑圧するためなら何でもやらかしそうに見えた当時の体制に対して、派手にドレスアップすることは、見事な反抗精神を表現する行動だったのです。ドレスアップして遊びに出かけることが一種の生き方になりました。ナイトクラブはクリエイティブな活動の温床であり、インスピレーションが得られると共に、守ってくれる相互サポートシステムを提供していました。当時の政治、社会、経済的状況はとりわけ気が滅入るものだったので(聞いたような話かもしれませんが)、僕たちは絶望をひとまず忘れて目が回るまで踊ったり飲んだりしていました。

毎日が記念撮影、毎晩がパーティのように(実際も大抵はそうでしたが)ドレスアップしていました。クラブに何を着ていくかを決めるのは限りなく重要で、個性的なルックス重視でしたから。服装によってレッテルを貼られたくはなかった。授業中に服を作ったり、何時間もかけて用意することは、たとえ日が昇るまで服が持ちこたえられなくてボロボロになっても、すべて経験のうちでした。

そんな輝きと驚きと混乱に満ちたストーリーは何十年にもわたって引き継がれ、今もDalston Superstore、Vogue Fabrics、The Gloryといったイーストエンドのナイトクラブで息づいています。新型コロナウイルスの影響でしばらくは店が閉まっていても、再びミラーボールが回る日がまたすぐ来ることを願っています。自分だけのスタイルをして、空想を膨らませてキラキラしているクラブキッズを止めることはできないでしょう。

良い時代は戻ってきます。デヴィッド・ボウイとイギー・ポップによるアンセム「Nightclubbing」を引用すれば、「今一番、粋なのは僕たち」。

…Still Proudly ‘Punk & Disorderly’
Words by Bev Elliott

100 Clubは特別な場所。13歳の時に初めて忍び込んで、記憶が正しければジョージ・メリーを観て以来ずっと、お気に入りのギグ会場なの。「ソーホーのパンク・クイーン」という名誉ある呼び名をもらった私にとって、100 Clubはパンクでスピリチュアルな第二の我が家。勿論、1976年の伝説の2夜連続イベント「Punk Special」にも参加した。

私がプロの音楽ジャーナリストになったのは、100 Clubのおかげと言ってもいいほど。ビール代を稼ぐために出版社で働いているうちに、自然にそうなったという感じ。最初に仕事したのは「Sounds」。70年代後半から80年代前半はライブに行くのが日課だったから、その夜もライヴを観に行ったらドアに手書きの紙が貼ってあり、ギグが直前に「残念ながらキャンセル」なった、と。それなのに翌週号でまるでそのギグが行われたかのようなレビューを目にしたときの驚きと怒りを想像してみて!この件を非難したことがきっかけで、私は「Punk & Disorderly」というコラムの執筆をすることになった。そこから先は、ちょっと曖昧だけれど周知の事実よね。

たしかに肌を切ったら「パンクの血が出てくる」と言える私だけれど、音楽の好みは幅広くて、トラッドからニューオーリンズ・スタイルのジャズ、レゲエ、スカ、ブルース、メタル等々、ジャンルは多数。英国の音楽遺産の礎ともいうべきこの素晴らしいクラブと歴史のおかげで、私もそうした様々な音楽を聴くことができたの。

個人的には、100 Clubとフレッドペリーのコラボレーションは、2つのカルト的なアイコンのパーフェクトな組み合わせで、まさに音楽の天国で実現した完璧なゲーム セット&マッチ。

アイルランド人とロンドン下町の血を引いているハーフの私としては当然、最初のフレッドペリーシャツはクラシックな「ハマーズ(ウェストハム・ユナイテッド)」のマルーン&アイスブルーの一枚。最近は私も大好きなエイミー・ワインハウス・ドレスで踊りまくってることが多いけれど(エイミーのことは今でも無念です)。

子供のころから、フレッドペリーと100 Clubという2つの素晴らしい英国のものに関わっていることが誇りだし、自分は両方の家族の一員だと思ってる。私が臨終の呻きを発するそのずっと後まで、彼らが永らく君臨しますように!