デイヴ・リトル

SUBCULTURE

Dave Little

デイヴ・リトル

2020年9月

ダンスミュージック界に多大な影響力を持つアートワークを作り上げた男が語る

「何が起きているか分かる人はいなかったが、肌で感じたんだ」

この発言について、詳しく説明していただけますか?

それは簡単に言うと…数年前、あるアートカレッジで話をする機会があったとき、部屋中の電気を消してもらったんだ。

そしてスペクトラムのフライヤーを持ち出して、ポケットの小さな懐中電灯で照らして、こう言ったんだ。「分かっているのはこれだけ。聞いたこともないDJと奇妙なビジュアル・グラフィック。友人から電話(固定電話)の1本すらない…。メディアにも登場せず、まだ発明されていなかったインターネットによって汚されることもなく、圧倒的な興奮と期待感があったんだ」

初期のパンクに似ていたね。分かる人には分かるという…。

あなたの考えでは、英国のどんなクラブやナイトイベントが全世界的なダンスミュージックへの道を切り開いたと思いますか?

うーん…長いリストになるけど…。

まず、レネゲイド・サウンドウェイヴを結成していたダニー・ブリオテットがやっていた、METRO SOUND SYSTEMだろうね。

彼は80年代半ばに、実に素晴らしい非合法のウェアハウス・パーティを開催していたよ。ロンドン西部にホワイトリーズというショッピングセンターがあって、まるで核戦争後を描いた映画のセット(思い浮かぶのは『ニューヨーク1997』)みたいだったんだけど、そこですらパーティをやっていた。あるときミラー張りのバイク・ヘルメットを被った、クレイジーなメイクとファッションの大男がいて、1年後にそれがリー・バウリーだったと気付いたんだ。

それから、クリス・サリヴァンがロンドンでやっていたThe WAG、そして勿論マンチェスターのハシエンダ。どちらのクラブも、数か月のうちに変身して本格的なアシッドハウス・ナイトを主催するようになったのを目撃したよ。

個人的に好きだったのは、ポール・デニスとD-Mobの「Aciieeed(アッシ~ド)」で有名な、ゲイリー・ハイスマン主催のThe RAID。

縦40、横17フィートの垂れ幕にイラストを手描きして、それに合わせたフライヤーもデザインして…ピート・トングとテリー・ファーレイはあのクラブで最初の経験を積んだんだ。

音楽がどんどん奇妙になっていくのが感じられた。―「ハイになってる」友人が増えていったし。そしてサウスロンドンにオープンしたShoomという謎のクラブがあったんだ。

ある夜、ポール・オーケンフォールドとサウスロンドンに繰り出したんだ。時は午前3時、行先はストリーサムにあるポールの「ナイトクラブ・プロジェクト」。それがすべてを変えたんだ!

その直後の1987年11月初めに、ポールはロンドン中心部にあるHEAVENの裏手に隣接していたSoundshaftというクラブでFutureをスタートした。フライヤーは僕がデザインしたんだ。あのクラブは僕にとって初のアシッドハウス体験で、まさに天地がひっくり返るような経験だった。今まで行った中で最高のクラブだと思う。たった200人しかいなかったんだけどね…。

それから、同じ日の夜に開催されたthe Rageのフライヤーも手掛けた。こっちは隣にあったメインのクラブ、HEAVENでやっていたんだ。初期 のドラムンベースとジャングルが混ざったヒップホップナイトだったよ。2つのイベントは天と地ほども掛け離れていたね。僕たちがザ・カルトやビートルズを聴きデニムを着てすっかりハイになっていた一方で、隣では黒のM1ジャケットと激しいサウンドが主流だった。両方のイベントのデザインをしたこともあって、僕は警備員から2つのクラブの自由な行き来を許された数少ない人間の一人になったんだ。

どんなきっかけで、一連の重要なアートワークを制作することになったのですか?

1986年の春、玄関ベルが鳴り、そこには実に怪しげな連中が立っていた。ポール・デニス、ゲイリー・ハイスマン、そして後に音楽、ファッション、フットボールをテーマにスタートしたファンジン『Boy’s Own』の制作陣となるアンドリュー・ウェザオール、サイモン・エックル、テリー・ファーレイ、スティーヴ・メイズ。実は僕は1週間以上も前からこの大物たちの訪問を待ち構えていたんだ。

お茶を飲んだ後、『Boy’s Own』というファンジン用のフライヤーを手掛けようと決めた。これこそ僕が以前からとてもやりたかった仕事だった。その頃僕は大学を卒業したばかりで、フリーランスのイラストレーターとしてTwixバーや煙草の箱にエアブラシでイラストを描く仕事をしていたんだ。金は良かったけど死ぬほど退屈な仕事だったよ。

奇妙なことに、同時期にRhythm King Recordsを紹介してもらったんだ。僕が関わり始めたときはまだレコードを2枚しかリリースしていなくて、そのうち1枚がTaffyのヒット曲「 I Love My Radio」だった。ちょうどレネゲイド・サウンドウェイヴが結成された頃で、友人のカール・ボニーに「君にレネゲイド・サウンドウェイヴのレコードジャケットをデザインして欲しい」と言われたんだ。Rhythm King Recordsに初めて行ったとき、オーナーのマーティン・ヒース(ザ・キラーズの発見者でもある)にばったり出会い、「ああ、君は優秀だからこの場で採用だ」と言われて、気付いたら一連のナンバーワンヒットを手掛けていた。S’Express、ボム・ザ・ベース、Beatmasters、そしてベイビーフォード、レネゲイド・サウンドウェイヴ―どれも当時の名作ばかりだよ。

他に名前を出しておかなければならないのが、ファッションデザイナーのコシノミチコ。僕は彼女と一緒に東京へ行き、”Motor King”という初のモダンなバイカーズストリートウェアを創作することになった…。あれは、僕が大の高速バイク好きであることも役立ったね。それからPucka Clobbaコレクション。こちらは初めての純粋なクラブウェア専門ブランドだった。ペットショップ・ボーイズが着たインフレータブルジャケットを創ったのも彼女だよ。

デザインのプロセスはどういったものだったのですか?細かい指示をされたのか、それとも好きなように創作できたのでしょうか?

スペクトラムのフライヤーで使った目玉は、ゲイリー・ハイスマンのアイデアだった。「デイヴ、真ん中にでっかい目玉があって、その下にHeaven onEarth(この世の天国)って書いてあるやつを頼む!」これだけが指示だったよ。それ以上は何もなかった!

それとアーティストのリック・グリフィンがグレートフル・デッドのポスターで用いたボーダーを意識的に使った。ティモシー・リアリーやケン・キージーがサンフランシスコで展開したアシッド・ムーヴメントの第2波到来だと思ったからね。僕たちは大学でイキがって、ボーンマスまでのいかれたミステリーバスの旅に出かけていたんだよ。

ゲイリーは、『Boy’s Own』の「Boy & Dog」のアイデアもくれたんだ。「これはうちで飼ってるピットブルのアリスの絵、こっちは僕が14歳の時の写真」と言われてね…!加えて『Boy’s Own』の悪名高き「時計仕掛けのオレンジ」のデザインもそう。この3つのデザインはどれもヴィクトリア&アルバート美術館に展示された。フライヤーとしては大したものだよね。

これまでに制作したアートワークで特に気に入っているものとその理由を教えてください。

数点はあるけど、何年も経つといつもデザインに手を加えたくなるから、自分の仕事に満足できるということは滅多にないんだ。初期のレコードジャケットやフライヤーのアートは勿論気に入っているけれど、僕がメインアーティストとして担当したSECRET GARDEN PARTYのイベントのオーナーだったフレディは、いつも仕事に役立つ素晴らしいアイデアをくれたよ。あのイベントのポスターは、フレディが70回ぐらい考えを変えたにもかかわらず名作だった!

メインアーティストとしてフレディと5年間仕事して、いろいろ制作したよ。アニメーション、ポスター、ウェブサイト、金属メダル…無限の創造力で素晴らしい経験だったよ!でも最終的には、お気に入りを選ぶのは他の人たちなんだ。僕が決めることじゃないんだ。

このコレクションのグラフィックは、デイヴ・リトルとフレッドペリーのクリエイティブ・チームによってデザインされたものです。