HERITAGE

テニス界の英雄“フレデリック・ジョン・ペリー”

1909年5月18日、イングランド北部の工業都市ストックポートで誕生。生まれ持っての才能と努力から19歳で卓球の世界チャンピオンになった2年後には、テニスのデビスカップメンバーとしてコートに立っていた。ウィンブルドン3連覇をはじめ、全米選手権を3度、全豪、全仏選手権もそれぞれ1度ずつ制し、史上初のグランドスラムを達成した伝説のテニスプレーヤーである。

貴族階級のスポーツだった当時のテニスにおいて、ワーキングクラス出身者が活躍したことは画期的で、その後も2012年までイギリス人から4大大会チャンピオンが生まれることはなかった。旅が好きで縛られることのない自由な性格だった彼は、4度の結婚と7回の結婚式を挙げるほどロマンスの絶えない人生で、類稀なるスポーツマンだったと同時に人を魅了するパーソナリティを持っていた。1995年にコメンテーターとして渡ったメルボルンで没後、彼の遺灰は今もその功績を称え建てられたウィンブルドンの銅像下に埋葬されている。

プロフィール:フレデリック・ジョンペリー

フレッドペリースポーツウェア事業の開始

超一流のテニスプレイヤーとして認められていただけでなく、同時にそのしゃれたスタイルからベストドレッサーとしても認められていたフレデリック・ジョン・ペリー。彼は引退後の1940年代後半、当時あまり優れていたとは言えなかったスウェットバンド(リストバンド)の開発を、彼の愛称“フレッドペリー”の名を入れてスタートさせた。努力のかいあって、そのスウェットバンドは軽く柔らかくしなやかな商品として開発することができた。テニスのトッププレイヤーたちが使用し、フレッドペリースポーツウェアが事業として開始されることになった。

ベストドレッサーとしても認知されていた彼がこれにとどまらず、シャツの製造を開始したことはごく自然な流れであった。この時はじめて正式にウィンブルドンから許可を得、今日にも継承される月桂樹のマークが誕生することとなった。そして1952年、英国ロンドンでフレッドペリースポーツウェア社を設立させた。

フィットするフレッドペリーシャツ

シャツは体にフィットするシルエットのものを製造した。だぶだぶのシャツが溢れていたこの時代のテニスウェアに対し、体にフィットするシャツは革新的でカッコ良く、多くのテニスプレイヤーから重宝がられた。自らもテニス実況解説時にシャツを着用し、積極的な広告活動を行った。「月桂樹=世界最高のテニストーナメント・プレイヤー」とのイメージが確立し、人々はこぞってフレッドペリーのシャツを求めるようになった。

その後もウィンブルドン大会がテレビで放送され、シャツの問い合わせはますます増えた。英国国内大手のスポーツショップが取り扱い、話題が話題を呼び、フレッドペリーのシャツはいつしかスポーツブランドとして確立していくことになった。

「女王様、このシャツはフィットするのです。」

この言葉はウィンブルドン開会式に来賓として招かれた、かのエリザベス女王がフレデリック・ジョン・ペリーに対し、「フレッドペリーのシャツは、ほかのシャツよりどの点で優れているのですか?」という問いに対する彼の自信に満ちた返答である。エリザベス女王が話題にする程、フレッドペリーのシャツは英国で浸透していった。

ティッピング

オリジナルの"M12 フレッドペリーシャツ"は、カラーの付いたティップラインを持ち込んだ初めてのスポーツシャツでした。
ロンドンのサッカークラブチーム、ウェストハムのファンは、クラシックなフレッドペリーシャツにクラブカラーを加えることが出来ないか、ロンドンの有名なショップ、リリーホワイトを訪ねます。リリーホワイトはそれをフレッドペリー社に依頼、色の付いたティップラインが正式にラインナップに加えられました。
これが最初のティップラインシャツの誕生です。

モッド

初期のブリティッシュ・モッズ・ムーブメントのメンバーは、夜な夜な活動する彼らにぴったりのフレッドペリーシャツをいち早くに手にしていました。スタイリッシュなそのシャツを、彼らはシングルの三つボタンスーツ、もしくはモヘアのスーツの下で、ぴったりとボタンを締めて着こなします。それは耐久性があり、夜通しきても型崩れせず、朝になっても見栄えの良いままでした。

フレッドペリーはスポーツウェアからストリートウェアを横断した最初のブランドとなりました。そしてファッションと音楽という、最も不朽な関係のひとつが始まったのです。

カーナビストリート

事業が大きくなると、必然的にシャツのバリエーションが検討されるようになった。まずホワイトが主流のシャツにカラーバージョンが誕生した。このことがフレッドペリーのその後を大きく変えることになった。

1960年代当時“モッズ”と呼ばれていた英国の若者文化はファッション・カルチャーの最先端であり、その動向は世界中の若者に大きく影響を与えていた。ブーツにジーンズ、細身の三つ釦スーツやジャケットをはおり、インナーにフレッドペリーシャツをトップボタンまで締めて着る、というスタイルが彼らの間で流行した。テニスシャツとして充実した機能性とバリエーションを持ったフレッドペリーシャツは、彼らのニーズに見事にフィットした。
このようなファッションはロンドンにある若者ファッションの代名詞カーナビストリートから、世界中に波及していったことはあまりにも有名であり、ビートルズやザ・フー、日本ではGSブームに反映されていった。

このようにしてフレッドペリーはスポーツウェアとして、またファッションアイテムとして、双方から認められるはじめてのクロスオーバーブランドとして確立することができた。

ノーザンソウル

ノーザン・ソウル・ナイトは英国北部の工業都市で始まりました。伝説的名クラブ、ツイステッド・ウィール、トーチ、ウィンガン・カジノがシーンの中心となります。このムーブメントは南部を拠点とするメディアには見過ごされますが、口コミで広まり、何千人もの若者が伝説の"オールナイターズ(夜遊び人種)"に参加するため、数百マイルを旅して集まりました。
彼らのチョイスしたシャツは、フレッドペリーシャツの象徴的な「ブラック×イエロー×イエロー」カラーでした。

サブカルチャーとのさらなる接近

1976 パンクの登場
ジーンズ等の綿製品を身に着ける事を嫌い、レザーパンツや安全ピンを使用するスタイルをしていたが、労働階級の出身の多くのパンクバンドはFPのシャツを着用していた。

1977 ペリーボーイズの登場
マンチェスターに出現した短命なムーヴメント。
デザイナーズブランドのジーンズに丸首のトレーナーやFPのシャツを着るスタイルが主流だった。
ザ・ジャムがデビュー。パンクバンドとしてデビューするが、後にモッズ色を色濃くしていきネオ・モッズムーヴメントの中心となる。
パンクのムーヴメントは1978のザ・セックス・ピストルズ解散で終わりを告げた。

1979 Quadrophenia(さらば青春の光)が公開
モッズリバイバル(ネオモッズ)のムーヴメントの先駆けとなる映画。

パンク

パンクとニューウェーブは、オックスフォード・ストリートの100クラブで行われたパンク・フェスティバルを契機に爆発的に広まります。フレッドペリーシャツは初期の段階で着用され、すぐにパンク/ニューウェーブ・ルックの基本となります。
以来ずっと「ブラック×シャンパン×シャンパン」カラーは、ミュージシャンが好んで着用する代表的なカラーです。

ペリーボーイズ

ペリーボーイズはユニークなアンダーグラウンドのサブカルチャーです。マンチェスターとサルフォードから発祥し、街のテラスハウスやナイトクラブのトレンドセッターとなり、彼らは周りの全てに反抗します。ウェッジヘア、フレッドペリーシャツ、ノーザン・コンフィデンスは当時の新しい流行となり、カジュアルズやレイヴ・シーンへと受け継がれていきます。

ヴィンテージ・ファッションの隆盛

1980年代前期:ツートン・ブーム
イギリスのパンクの要素とジャマイカのスカのミュージックを融合させた曲がこのブームの幕開け。テリー・ホールがヴォーカルを務める ザ・スペシャルズ から マッドネス まで、その音楽のスタイルと共に、スキンズとルードボーイのファッションを反映させたスタイルはフレッドペリーのシャツを受け入れた。

1990年代前期:ブリットポップのムーヴメント
オアシス、ブラー、オーシャン・カラー・シーンらが登場し、PV や販促用の写真でフレッドペリーのシャツを好んで着用した。80年代の後期から低迷していたフレッドペリーブランドもこのムーヴメントにより90年代中期には息を吹き返すこととなる。

1995年:フレデリック・ジョン・ペリー、オーストラリア/メルボルンで死去(享年86歳)
昨今の若者のファッションスタイルは流行の移り変りが激しい。が、ヴィンテージファッションはある種カルチャーとして定着していることは世界共通と言える。そのような中で、英国では1999年にロンドン・コベントガーデン、2000年にマンチェスターにフレッドペリーショップがオープンした。レトロスポーツ感覚のアイテムが、ヴィンテージ志向の強い若者が求める需要を満たし、英国でフレッドペリーはヴィンテージファッションブランドとして改めて注目されるようになった。
日本においても、若者のヴィンテージ志向は近年定着している。このような背景の中、フレッドペリー・ヴィンテージポロシャツが日本で復刻版(英国製)としてインポート発売された。1960年代モッズたちに愛されていたフレッドペリーポロシャツを、素材感・タグ・ロゴマーク・シルエットなどを当時そのままリアルに復元。日本でも時代の流れに合わせ、当然のことのように若者に受け入れられた。ポロシャツに次いでトラックジャケットなども発売され、現在では商品構成において世界戦略のもとに、ワールドワイドな商品を世界中で同時に展開している。

ブリットポップ

ブリットポップは90年代初頭に、60年代のUKギターバンドの影響、そしてUSグランジへのダイレクトな反応として、UKインディーミュージックシーンから生まれました。その音楽、アート、ファッションは"ブリティッシュネス"の新しい感覚を形成しました。その中核にあったのはフレッドペリーシャツです。

事業開始50周年と生誕100周年

2002年、フレッドペリーは事業開始から幾多の変遷を経て、記念すべき50周年を迎えた。この頃からポロシャツやトラックジャケットといったスポーツウェアだけでなく、ニットやシャツなどバリエーションも豊富に、ファッション性の高いアイテムを本格的に展開し始める。直営店のオープンが本格化するのもこの頃で、日本ではこの年初めて原宿に路面店を出店。ファッションブランドとしての注目がさらに高まるようになった。2004年からはコム・デ・ギャルソンやラフ・シモンズを始めとする、様々なファッションブランド / デザイナーとのコラボレーションを開始し、ハイファッションの世界にも進出する。

ファッションの世界に進出する一方、ウィンブルドンでフレデリック・ジョン・ペリー以来、77年振りにイギリス人男子として優勝を果たしたアンディ・マレーをプロデビューから2009年までサポート。シリアスなテニスシーンにもまた新たな風を送った。

2009年はブランドの創設者、フレデリック・ジョン・ペリーの生誕100周年を受け、ラフ・シモンズとの100周年記念ラインの発表、100周年を祝福するパーティーの開催などアニバーサリーイヤーに相応しい様々なイベントを実施。ポール・ウェラーやザ・スペシャルズ、エイミー・ワインハウスといったミュージシャンとのコラボレーションやライブイベント、サブソニック・ライブの開催など、ブランドのバックグラウンドであるサブカルチャーをベースとした活動も積極的に展開している。2012年にはブランド生誕60周年を迎えた。

フレッドペリーブランド

ローレルリースロゴは50ヶ国以上にあるショップやそのカスタマーを通じて世界中で認識されています。

オリジナルのフレッドペリーシャツは未だ同じ高い基準で作られ、そのシャツはアンダーグラウンドのファッション、そしてブリティシュクールの象徴となっています。

フレッドペリーはユニークなスポーツウェアのバックグラウンドと、ミュージックヘリテージを持ったグローバルファションブランドへさらなる進化を遂げています。

Frederick John Perry's PROFILE

Frederick John Perry
フレデリック・ジョン・ペリー
出身地: イングランド・ストックポート
1909年 5月18日
イングランド・ストックポートにて誕生
1928年
卓球の世界チャンピオンとなるもすぐに引退
テニスを始める
1931年
男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイギリス代表に初めて選出される
1933年
イギリス代表、デビスカップで初優勝を飾る
フレッド・ペリーは代表を勝利へと導く貢献を果たす
全米選手権優勝
1934年
全豪選手権優勝(対戦相手: ジャック・クロフォード / 豪)
ウィンブルドン選手権優勝(対戦相手: ジャック・クロフォード / 豪)
全米選手権優勝(対戦相手: ウィルマー・アリソン / 米)
1935年
全仏選手権優勝(対戦相手: ゴットフリート・フォン・クラム / 独)
前人未踏の4大大会制覇、グランドスラム達成
ウィンブルドン選手権優勝(対戦相手: ゴットフリート・フォン・クラム / 独)
1936年
ウィンブルドン選手権優勝(対戦相手: ゴットフリート・フォン・クラム / 独)
全米選手権優勝(対戦相手: ドン・バッジ / 米)
プロテニスプレーヤーに転向
1939年
肘の骨折を期に、プロテニスプレーヤーを引退
1940年代後半
スウェットバンド (リストバンド) の開発・販売を開始
1952年
フレッドペリースポーツウェア社を設立
1975年
国際テニス殿堂入りを果たす
1984年
ウィンブルドンのサマセット・ロードの入場口が「フレッドペリー・ゲート」と改名
同時に彼の銅像も設置される
1995年
オーストラリア・メルボルンにて死去 (享年85歳)
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